人生に四つの計あり

初日の出古い故事に四計という言葉があります。人生を充実させるためのコツのようなモノで、年末に際し意訳してご紹介させていただきます。 

「一日の計は朝にあり」  今日の一日をどうやって過ごすか、朝にキチンとした計画を立てることで、仕事や家事や友人関係など、あらゆる面で生活がスマートになるはずです。

朝からダラダラとするばかりで何の計画性も持てないようなら、一体どうして1日を充実させていくことが出来るでしょう。

ご信者の朝はご宝前のお給仕から始まり、なるたけ朝参詣をして御法門を聴聞し、御題目をお唱えして心に優しい気持ちを起こすこと、すると御法様より1日の無事息災をお計らいとして感得させていただけます。

 「一年の計は元旦にあり」  年末年始はもっとも大事な節目の時。行く年の反省をして来る年の抱負を立てることが、日本文化の優れた伝統の一つといえるでしょう。「竹」が細くてもしなやかな強固さを保つのは、幹に節目がいっぱいあるからだと聞いたことがあります。私たちの精神も同様で節目をたくさんつけることにより、しなやかな成長をしていくことでしょう。

ご信者の年末はご宝前のお塵払いをさせていただき、一年間の反省改良をして身も心もキレイに整え、気持ちを一新させて新年の安穏を祈りましょう。

「家内の計は和同(和合)にあり」 和合の意味は、仲良くなること、親しみ合うこと。これは家族に限定されることでなく、職場や近所などのコミュニティーでも同じことがいえるでしょう。良い仕事をするには職場の雰囲気作りこそ大事だし、ご近所づきあいでも親しみが増せば相互扶助の効果がでます。

ご信者同士の付き合いは異体同心が大原則ですから、一つ御題目の下で協調をはかりながら、相手に尊敬の念をもって互いの美点を吸収していく、そこに更なる親睦が深まっていくはずです。 

「一生の計は早年にあり」  夏目漱石「虞美人草」の一節に、老人が身をやつして「何でも若いうちのことだ」と言っています。若いうちには何でもないようなことが、年老いてくると難儀になってくるはずです。それなのに、若いうちから無努力でいれば、言わずもがな困難は増すばかり。それは自明の理だと分かりつつも、目前の快楽にふけるのが若者の傾向でしょうが、それを若いんだから仕方ない…とするのは、一種の言い逃れに過ぎません。

ご信者は常から「今日より若い日はない」ということを強く自覚すべきです。たとえ年老いてからでも決して遅すぎることはないわけで、人生にきちんとした目標さえあれば心は常に若いままでいられるはずです。平成24年に向けて教化の誓願をたて、気儘な心に正しい方向性を定めましょう。

皆さん、来年も良いお年をお迎え下さい。

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ポイ、奮闘記

みなさん、ポイというジャグリングを知っているでしょうか。私は4年前くらいに先輩から教えてもらったのですが、テニスボールくらいの大きさのボールに50センチ位の紐があり、紐の先を手で持ち回して遊ぶというものです。 

ポイコミュニティーというサイトには次のように紹介されています。ポイの起源はニュージーランドマオリ族にあり、マオリ語で『ボール』という意味。伝統的なポイは紐が短く、おもりの部分に綺麗な飾りがついていて、複数の女性が歌いながら回します。現在では、ポイは紐の部分が長く様々な形があり、回すスタイルも人それぞれで、伝統的なスタイルとは異なる文化に成長しています。このモダンポイは世界中に広がり、ジャグリングの一種として音楽やダンスと融合したニュータイプのアートパフォーマンスとして注目を集めていますとあります。 

ポイ私は、早速ポイを東急ハンズで購入し、みんなで回して遊びました。意外と回すのが難しいのですが、うまく回るとキレイな円が表れ感動しました。しかし、ポイにはいろいろな技があるのですが、どれも簡単ではなく長続きしませんでした。 

それから3年が経ち、今から1年前のことです。れんげまつりといって皆で踊りや歌などを披露して、お祖師様(日蓮聖人)の御誕生をお祝する行事があるのですが、その中で何を思ったのか私はポイの演技をすることを公言してしまったのです。 

発表まで2カ月。それから時間を見つけては練習に励みました。先のポイコミュニティーのオンラインレッスンを見ながら技の練習です。

やはり難しく顔や頭にボールが当たりメガネはまがり、筋肉痛にもなるはで挫折しそうになりました。それでも公言した限りはと続けているうちに、一つの技が出来るようになったのです。それがとても嬉しくて、次の技への挑戦意欲も出てきて、時間はかかりましたが中級クラスまでの技は大体出来るようになったのです。 

演技に使うポイは、ライトポイといってボールがLEDで光るものを使うことにしました。発表時間は昼間、場所は会議室。外の光が入らないように黒のゴミ袋で窓を覆うようにして、演技構成を考え、バックミュージックを決め、いざ本番へ。かなり緊張しましたが、それなりに上手くいき、ご信者さんも喜んでくれたように思います。また8月には中央布教区のキャンプでファイヤーポイに挑戦し、10月には敬老会でもライトポイを使った演技をしました。 

なんだかこんな事ばかりしていて、いいものなのかと気懸りでしたが、ある先輩の教務さんより「普段とは違う一面を見せることも、教務の一つの御奉公でもあるのだよ」というお言葉を頂き、それだけが救いです。 

皆さまも、もしよかったらポイに挑戦してみてください。最後になりましたが、ポイコミュニティーみなさん、レッスンありがとうございました<m(__)m>

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御法にお出会い

絆私たちがお講席で堂々お唱えさせて頂く、『妙講一座』の御文に「ああ有り難や、まれに人身を得、適仏法にあへり」という御文があります。

人間に生まれ、御法にお出会い出来たと云うことは、大変な果報なのでございます。 

み仏は「爪上の土」(涅槃経)とお教え下され、広い砂浜で砂を指の爪ですくって、爪の上に残った砂は一粒・二粒あるかないかであります。たくさんの生物がいる中で、人間に生を受けることの難しさ譬えられております。 

そして『妙講一座』には「今此下種の大法にあい奉らずば、何ぞ唯信のみにて仏果を成ぜん」とあり、上行所伝本因下種の大法でなければ、末法の凡夫は救われない、とお示しでございます。 

下種の大法にお出値いするのは、人間に生まれる事よりさらに難しいことで、御仏はこれを「一眼の亀の浮木の孔に値えるがごとし」(妙荘厳王本事品)と、片方の目が不自由で方向感覚がない亀が、大海原の海面を漂う浮き木を見つけ、たどり着くことよりも難しい。とお示しでございます。 

まれに人間界に生を受け、しかも下種の妙法にお出値い出来た喜びを「忘るゝ間なく 南無妙法蓮華経」といつでも、どこでも唱え重ねることが大切であります。

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バイアス

テレビ画以前、NHKの番組で「巨大津波 その時ひとはどう動いたか」というタイトルの番組が放送されていた。津波で多くの犠牲者を出した宮城県名取市ゆりあげ地区。

その地区の人達が地震発生時から津波到達までの1時間10分の間、どのような行動をとったのかという内容だった。 

その中で、2つのバイアスというものが人の心に働いたと専門家が指摘していた。正常性バイアスと同調バイアスの2つで、バイアスとは、心理的には、「偏見」「先入観」「思い込み」と定義されている。 

正常性バイアスとは、危険を無視してしまいたいという心の働き。人間とは非難したがらない動物で、たとえ危険な状況におかれていても、危険ではないと思い込んでしまうようだ。自分は大丈夫、今回は大丈夫だとしてしまう。 

地震発生後、家が破損したり道路に水がしみ出している状況にも周りは静かで、家の片づけをするなどすぐに非難する人は少なかった。また人々は、津波は貞山堀を越えてはこないという思い込みを強く持っていたという。 

同調バイアスとは、周りの人達と行動を合わせることで安全と考える心の働き。どうして良いのか分からない時、とりあえず周りの様子をみようと考えたことはないだろうか。これは災害時に顕著になるもので、今回の震災でもこの心理が働いた。避難する車で渋滞していたが裏道を使わず、前に進むのを待ち続けた人が多かった。ラジオで大津波がくる情報を得た人が、避難所の学校の校庭にいる多くの人達に、ここでは危険だと伝えても人々はなかなか動こうとはしなかった。 

この2つのバイアスが働いたために多くの犠牲者を出したのではないか、心に緊急のスイッチを入れることが防災には必要不可欠であるとの番組だった。 

振り返ってお互いはいかかであろうか。つい目の前の生活だけに追われて、緊急のスイッチを入れることを疎かにしてはいないだろうか。今の生活がそのまま続いてほしい。変わりたくない。大丈夫このままでいいと思い込み、本当に見つめなければ、いけない所から目を逸らしている。 

そうした甘い部分が正直、今の自分にもある。正常性バイアスが働いているのか。そうではなく緊急スイッチを入れ警鐘を鳴らしている人も沢山いる。 

心のスイッチをONにしなければ…反省する今日この頃である。

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生老病死ということ

秋のふかまりを感じる今日この頃、路上の片隅ではせっせと落ち葉を清掃するお年寄りがいます。その頭上にそびえる道ばたのイチョウは、なんの躊躇あろうかと自然のなりゆきにまかせて黄の葉をジャンジャン降らせています。そんな情緒的な風景を眺めながら、ご苦労なことで放っておいても葉は土にかえるだろうにと思いつつ、それは世間を知らない安直な発想だろうかと考えなおし、社会の構造と自然の摂理との矛盾に挟まれて、その場から早く逃げたくなります。 

そんな私のヘンテコな悩みとは別にして、仏教では人間の苦しみを、おおまか四つに分類します。世間でも「四苦八苦する」などと使われる、生老病死の苦しみです。お釈迦様はそれらの苦しみを解決しようと志され、シャカ族の王子という立派な身分を捨ててご出家あそばされました。 

①生きる苦しみ   私達が人生を歩んでいくなかで、自分の選んだ道がいつも安全で正しい選択だとは限りません。思わぬ落とし穴があったり、行き止まりにぶつかったり。小石につまずいたり、泥をかぶったり。そうして傷だらけとなっても息つく暇さえ与えてもらえず、命の続くかぎり決して立ち止まることは許されない、それが生きる苦しみです。

②老いる苦しみ  人間は長生きをすればするほど、体の自由がきかなくなってくるものです。身体が動かないために思い通りのことができなくなってきて、やりたいこともやれずに我慢を強いられ、果ては歩くことすら困難になってベッドに寝たきりになる…。自分の行動が老いによって制限されてしまうのは、やり切れない苦しみのはずです。

③病の苦しみ  病気にかかると色んな痛みに襲われます。老いの苦しみとも重なって、あっちが痛いこっちが痛いと、毎日が痛みとの戦いになるわけで、病気というのはツライ苦痛が伴います。 

④死の苦しみ  人間がこの世に産まれた瞬間から、命は死にむかってカウントダウンを始めます。ふとした時に心の中で、自分の命が終わる瞬間をイメージすると、虚しさとか寂しさに包まれて、悲しく苦しい思いをいたします。

上記のような生老病死の苦しみは、おおむね自己の心中に生じる葛藤、ジレンマのようなモノです。しかし、この四つの苦しみは単に個人的な苦悩にとどまらず、実は周囲の家族にまで及びます。 

①「生きる苦しみ」とは、言い換えれば「生かす苦しみ」でもあります。主婦が毎日の生活の場面で、食べさせたり世話を尽くして、家族を生かすのは大変なことですし、旦那さんが家族を生かすために、社会の中で働いて尽くすのも大変な苦労だと申せましょう。

②「老いの苦しみ」とは、言い換えれば「老いを支える」苦しみでもあります。身体が老いて動かなくなってくれば、その分、家族はサポートをしなければなりません。人を支えるということには、大変な重みがのし掛かかってくるはずで、家族は支えの手を離すわけにはいかない、そういう苦しみです。

③「病の苦しみ」とは、言い換えれば「病を共にする」苦しみでもあります。病気にかかれば、病院代や薬代もかかります。お金の算段をするのは家族でしょうし、病人のお世話をするのにも、時間や体力がかかって大きな負担となってのしかかる。そういう苦しみです。

④「死の苦しみ」とは、言い換えれば「死者を送る」苦しみでもあります。亡くなったご本人は、ひょっとすると楽になれたのかも知れませんが、まわりの家族は葬儀の心配とか、役所に行ったり遺産整理をしたり、事後処理に追われてこれも大変な苦労です。

先日、受持の教区で92歳のお爺さんが亡くなられました。最後は寝たきりとなった老人を、奥さんと娘さんで自宅介護していたようですが、奥さんはちょっと年下、娘さんといっても70歳ぐらいでしょうか。老老介護という言葉を聞きますが、並大抵の苦労ではなかったと思います。長生きするのもツライなと、お葬式の時に正直そう思いました。 

家族はひょっとしてホッとしたのではないかと考えると、お悔やみの言葉をかけるよりは、お疲れ様でしたと言葉をかけるべきなのか、何だかよく分からなくなったので、心の声を飲みこんで、とにかく御題目だけお唱えしてきました。 

大きな宇宙の流れの中で、あらゆる命は枯れ葉のように、大地へもどる定めでしょう。けれども、それぞれの命にはそれぞれの年輪があるから、親しい人が大事に跡始末をつけるのかも知れません。落ち葉を掃く人の気持ちにも、土地の因縁というモノから来る、色んな想い出があるのでしょうか?私はまだそんな気持ちで箒を持ったことがないので、正直よく分かりませんが、いつかはそんな風に真面目な態度で箒を握ることもあるでしょうか。

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かけがえのない命

一年はあっという間に過ぎるもの。早いものでもう12月となりました。今年私はいろいろなお役をいただき、御奉公させていただきましたが、そのなかでも、くんげ会の担当教務として、大好きな子供達に触れ合う時間を与えられた事はとても嬉しいことでした。 

先日も境内を歩いていると、くんげ会会員のGちゃんが元気よく駆けてきました。Gちゃんは今年4歳。熱心なご信者さんである祖父母や両親の愛情に包まれて、すくすくと成長しているのがはた目にもわかります。私がいつものように顔を覗き込み、「こんにちは」と言うと、「こんにちは。ありがとうございます。」というと、やはり回らない舌でおうむ返しに返事をしてくれます。持っていたお菓子を上げると、歯のそろわない口をいっぱいにあけて、また「ありがとう」と言い、元気いっぱいに駆けていきました。 

このように屈託なく暮らす子供がいる一方で、連日報道される、「虐待」のニュースはどうしたことでしょうか。内容は肉体的、精神的なものから、育児放棄にいたるまで多岐にわたりますが、そうした事件のあまりに無慈悲な仕打ち、無残な顛末には胸を痛めるばかりです。 

抵抗する術を持たない無力な子供が、この世で最も信頼し愛している親から、日夜心身をさいなまれ、命の危機にさらされる―これほど切なく残酷なことはありません。子供を持たず、子育ての苦労を知らない私などには、育てる側の苦労は知る由もありません。 

それでも、母親が十月十日のうちに子供におなかを蹴られたとき、また生まれてきたその子に名前をつけたとき、にぎった手をにぎり返してきたとき、この子を何に代えても守りたい、と一度でも思わなかったでしょうか。子を持つ恵みを受けながらも、愛し切れずに過ちをおかした親の心も、またやるせなく、こうした親もまた過去に傷をおい、心は子供のままで、成長した大人であるのかもしれません。 

近年、急増するこうした虐待も、今に始まったことではなく、かつては、貧しさから子供を捨てたり、身売りをさせたり、という記録もあり、社会もそれを知りながら解決の決め手は見出せずにいたようです。大正期には志の高い女性たちにより真剣な議論が戦わされ、また命がけの尽力で、産児調節が提唱され、女性の社会進出への道も開かれ、子供を育てながら、働きやすい環境は整えられたはずなのです。 

それでも親が子供を傷つけ、殺める事件が後を絶たないのは、結句、物質的な貧しさからではなく、精神の貧しさが原因、ということになります。いくら社会で子供を救う体制を整えても、心の根幹にまで善なる性質を浸透させ、魂を救済する事までは難しく、最終的には当事者たちの自覚や心がけの問題、という結論になるわけです。 

ここで、わたしは信仰の役割を強調したいのです。事件を起こす親たちに抜きんがたい煩悩があるならば、それを解消するために、また親子でありながらも傷つけあうめぐり合わせに生まれてきたならば、その連鎖を断ち切るために。そのためには、社会機構や、医療だけではなく、信仰のもつ救済力が有効に働くのではないでしょうか。 

特に私達のお唱えする上行所伝のお題目は、罪障消滅、定業能転、つまり、過去世における罪障を消滅し、定まった宿命を良い方向へ転換させうる、強い力があります。本来どうする事もできない、汚れた過去の因縁までもきれいにし、現在、未来も明るく照らし、切り開く力が私達のお題目には備わっています。その事を信じて唱え重ねた結果、傷だらけの心を癒し、立ち直った人、また立ち直ろうと前向きになれた人たちが、私の周りには確かにいます。そうした人たちは過去に囚われる事から開放され、先の長い残された人生をどう充実させて生きようか、懸命な努力を続けています。 

私は僧侶の立場として、なんとかこうした方たちのお役に立ちたいと思い、まだまだ他にもいるはずのそうした方たちにこの不可思議な妙味を体得していただきたい、と切に願う次第です。

あるご信者さんのお話ですが、この方のお母様が亡くなられる前に、この方に遺されたという言葉が私には忘れられません。

「私にお前が授かったのは御法様のお力によるもので、自分の子供と云うより御法様からの預かりものとして大切に育ててきたつもりです」。世の中の人が一人でも多く、こうした心になり、産まれてきたかけがえのない命を尊重できることを願って止みません。

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冬至

冬至とは二十四節気の第22。十一月中(旧暦11月内)。今年の冬至日は、12月22日(木)だそうです。一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日。 

なお、1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の半月後頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の半月前頃である。  

また、北極圏では冬至に太陽が昇らず(極夜)。夏至に太陽が沈まない(白夜)となると言われています。北極は3つあります。一般的に言われる地軸による「地理学上の北極」つまり北緯90度。と「磁石による磁北極」は良く知られた話ですが、もう一つの北極があります。 

オーロラの観望の適地として知られるのは、アラスカやカナダの北部です。その理由として挙げられるのがリング状に分布するオーロラ帯と呼ばれる場所に近いからです。そして、このリング状のオーロラ帯の中心は「地磁気極」と呼ばれてグリーンランド北部にあるのです。

この冬至日にゆず湯に入り、小豆がゆやカボチャを食べると風邪をひかないと世間では言われています。 

古代には、冬至を1年の始まりとしていた。その名残で、現在でも冬至は暦の基準となっている。中国や日本で採用されていた太陰太陽暦では、冬至を含む月を11月と定義しているが、19年に1度、冬至の日が11月1日となることがあり、これを朔旦冬至(さくたんとうじ)という。 

古代ヨーロッパのゲルマン民族の間で、冬至の頃に行われていた祭りのことをユールと呼び、後にキリスト教との混交が行われクリスマスとなったとあります。しかし、北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶそうです。 

次の節気は小寒で、来年の1月6日(木)です。世間では寒の入りと言われています。小寒から立春の前日までが「寒中・寒の内」と言われ、冬の寒さが一番厳しい時期となり、寒中水泳とか寒稽古など体を鍛える習慣があります。 

乗泉寺では、この冬の寒さが一番厳しい時期の1月6日(木)より2月4日(金)までは寒参詣です。一年の初めにお寺参詣をさせて頂く機会です、是非、お寺参詣が習慣となるよう皆参を目指して下さい。また、寒参詣期間中は朝2回、夕方1回の御法門がございます。御法門聴聞の場に一回でも多く参詣し、ご信心を磨き鍛え上げましょう。

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人を”生かす”

2年ほど前でしょうか、ラジオ番組で、あるスポーツチームの監督が、「私の役目は、選手たちを生かすことです。」と語っておられました。およそどんなスポーツでも、勝つことを目的としないものはあり得ないでしょうが、競技する選手自身が生き生きとしていなければ、到底勝利までたどり着くことは望めません。 

私は、今までに、一度だけ自殺をしてしまおうかと考えたことがありました。ところが、ちょうどその時、友人の一人が、「メシ、食いに行こう。」と誘ってくれました。彼は、食事に出かけて帰るまで、ほとんど何も話しませんでしたが、終始ニコニコ顔でした。すると、そんな友人の笑顔を見ているうちに、私は、自分がつまらないことにとらわれていたと気付き、自殺を思い止まることができました。私にとって、正しく起死回生の出来事でありました。あとでその友人にお礼を言ったら、全くそんなつもりではなかったと言っていましたが、恐らく彼は、私を元気付けようとしたのだと思います。(これがもし本当に偶然だとしたら、仏様から最高の御利益を頂戴したとしか、言いようがありません。) 

世の中には、この友人のような人もいれば、反対に、他の人をやたらと悪人呼ばわりし、人格を否定し、果ては、自分はさも非の打ち所のない善人であるかのように、「何とも見事に」責任転嫁をしてしまうような人もおります。そう考えますと、私たちの言動は、他の人を生かすこともできますが、下手をすると心に大きな傷手を負わせてしまうことにもなりかねないのです。 

何事も同じでしょうが、本門佛立宗では、厳愛の二義、すなわち厳しさと優しさとが不可欠であると言われます。人を指導する際に、貴方はもっと進歩・向上できるはずだと、まず相手を全人格的に肯定したうえで、誉め称えたり叱咤激励したりしていかなければ、その人を本当の意味で生かしていくことはできないでしょう。 

本年3月11日には、東日本大震災のため、多くの尊い命が奪われてしまいました。このような天災は、人の力では防ぎようのないことでありますが、残された私たちは、お互いを「生かし合う」ことに、全力を注いでいきましょう。

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日本語を考える①

知っているようで知らない日本語って実は沢山ありますよね。私自身、年を重ねてもまだまだ知らない言葉や何気なく勘違いをして使用している言葉はあるもので(本当にまだまだですが)、知れば知るほど、日本語の奥深さを痛感します。 

代表的な諺や熟語を幾つか挙げてみますと・・ 

一、情けは人の為ならず  (×)人に情けをかけても、その人の為にはならない。(◯)情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来るということ。

二、確信犯  (×)悪いことだと知った上で犯罪を行った人。(◯)道徳的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。

三、辛党  (×)辛いものが好きな人。(◯)甘いものより酒類が好きな人。

四、しおどき  (×)物事をやめる時。(◯)物事を行うのに最も良い時。

などなど、例を挙げればキリがありません(^_^;)

結構盲点ですよね~ 

私自身も先日、ちょっとした勘違いに気付かされました。私は、今の時期のような季節の変わり目などには、手紙や携帯などのメールの文末に「お体ご自愛下さい。」と言った表現を当たり前のように使用しておりました。ところが、この使い方はどうやら間違っていたんです。 

そもそも、「ご自愛」とは、「お体を大切にして下さい」という意味で、「自愛」という単語そのものに「体」の意味が入ってるんですよ。「自」=「体」、「愛」=「大切」という事になります。

つまり、「自愛」の前にも「お体」とつけてしまうと「頭痛が痛い」といった表現のように、同じ意味を重ねてしまっていたことになるんです。あら、恥ずかしい。。 

日本語って、こうした難しさと面白さがありますよね(^^)学校や社会でも、どちらかと言えば、そこまで深く教わらないことかも知れませんが、諺や漢字の語源と由来を知ると、日本人は「言葉」を大切に、そして繊細に使い分けをしていた民族、文化であったことが分かります。 

また誤って言葉の意味が世間で知られるようになるってことにも、それ相応の背景がありそうで、単純に否定ばかりも出来ません。私達も、言葉に対する畏敬の思いをいつでも忘れないで、日本語を正しく使わせて頂きたいですよね☆

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時間の使い方

1日の仕事の優先順位づけに頭を悩ませている人も多いようですが、私もその一人でございます。時間の使い方は人それぞれです。きちっと予定を立てなければ、気の済まない人もいますし、予定を立てるのが嫌いな人もいます。 

大切なのは、休むときは休み、動くときは動いてメリハリをつけることだと思います。体調が悪いのに仕事をしたからといって、効率良いはずがありません。それに効率だけではなく、一日嫌な気分で過ごすことにもなります。なかなか予定を立てられない方は、気持ちに余裕が持てるよう工夫することが大事だと思います。 

この「余裕を持つ」いうことはとても重要で、実際私は今まで間違った時間の使い方をして、苦労をしてきたなと思っています。一番の例は、睡眠時間を削ったり、食事を慌てて食べるといった無理をするなどして、一時的に時間を増やす考えを持っていたことです。自分の中では、一食、食事を抜いたり、寝る間もおしんでやって、その場その場では頑張っていると思っていても、よくよく考えてみると、このような行動をとるのは、今日しなくてはいけない状況に、追い込まれてしまっているということです。 

また予定を立てても、実際思いどうりに行かない時は、自分自信の怠け心がてて、娯楽を優先したり、あまり意味の無いことに何となく時間をずっとかけている。そんな日常行動も意外に多いと思いました。 

このようなことでは、勿論余裕など持てませんから、焦ってしまったり、集中など続くわけもなく、そして睡眠不足から体調面も悪くなり、しまいにはやるべきことも諦めてしまうという、悪循環になってしまっています。 

この失敗を繰り返さない為にも、その場しのぎでなく、やるべき事の優先順位を頭にえがいて日々少しでも、時間をつくり効率よい習慣を身に付け長期間にわたって続けられる方法を体に覚えさせることが大切と思います。 

開導聖人御指南には、「光陰を懈怠の為に費やすは謗法也」と仰せで、遊びや娯楽の為に費やす時間はご信心上では、謗法とお戒めされております。 

私達佛立信者はこの懈怠(怠け心)が多く出てしまいますと、日々のお看経・御奉公にも支障が出てしまい、御利益を頂きにくくなってしまいます。

ですから、充実した日々を送る為にも、一日24時間、限られた時間の中での生活習慣、時間の使い方を見直し、反省・改良に心がける事が大切だと思います。

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依法不依人

先日、テレビを見ていたらオウム事件一連の裁判終結のニュースがやっていた。今から16年前、世間を騒がせたオウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件である。13人もの死刑囚を出し、未だその事件の全貌が明らかにされていないというオウム事件。今でもこの時の被害で苦しんでおられる方がたくさんいる。

 

当時、私は産業廃棄物処理の会社に勤めており、主にトラックで写真廃液を収集運搬する仕事をしていた。トラックに大きなタンクを積んでそのタンクに写真廃液を集めてくるわけだが、何度も警察に止められ、中身の確認、身元の確認をされた覚えがある。

 

16年も前の事であるから、ここ最近はこの事件の事などすっかり忘れてしまっていた。しかし、宗教に携わる立場にいる一人の人間として、忘れてはいけない事件であるということ、また、この事件を知らない世代の人達が現実にいる。二度とこのような事件が起らないよう、この事件を知っている者の一人として、宗教のあり方というものを真剣に考え、よく弁えておかなければいけないのではないかと強く感じた。 

そもそも宗教とはなんなのか。私は宗教学者ではないので宗教の定義などは語れる立場にはないが、私の個人的な宗教観としては、宗教とは我々人間が人間として正しく生きていくためのものでなければならないということであり、人間として生きていく上で必要なものであると私は思う。自分が悩みや苦しみに直面した時、すがれるもの、寄りかかれるものがあるということは大変心強い。また、自分が悪の道に進もうとした時、神や仏という我々人間では到底及ばない力を持っている存在を自分が認識していれば、それが悪の方へ進むことを止めてくれる抑止力になる。日本には昔から悪いことをしようとすると、「お天道様が見てるぞ」と言って、戒めてきた。 

しかし、この我々人間にとってとても大切なものでなければならない宗教も、一つ間違うととんでもないことになってしまうのだ。世の中にはでたらめな新興宗教がたくさんあり、間違った教えにより人生の道を誤る人達がたくさんいるのである。 

では、正しい宗教とは一体どういう物でなければならぬのか。仏様は涅槃経という教えの中に、「依法不依人」(えほうふえにん)「法によって人によらざれ」と仰せられている。宗教とは人の考えではなく、あくまでも教え、「法」によらなければならないということである。このことを、どこまでも忠実に実行し宗教活動をされたのが、日蓮聖人である。 

日蓮聖人は、本当の教えを求めて、一生に一度でもできれば素晴らしいとされる、膨大な量の仏の全ての経典、一切教の読破を何度もされ、その結果、法華経本門八品の御題目の信仰こそ、人間を救う唯一の教えであるという結論に達せられたのである。また日蓮聖人の御書を拝見すると、日蓮聖人は自分の主張は私個人の考えではない。すべてお経文にこうあると、いちいちその論拠となる経文を挙げられて、教えを説かれ、どこまでも「依法不依人」を貫かれたのである。 

また、日蓮聖人は、正しい宗教のあり方について、「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事 昭定 1066頁)

と、宗教の正邪を判定するには、その宗教にまず、「道理」つまり物事の正しい筋道、また、人として行うべき正しい道が説かれてあるか。そして「証文」その論拠となる確かな教えの文があるかどうか。さらに、「現証」その教えによって救われるという現実の証があるかどうか。と仰せられている。 

宗教とは我々人間にとってとても大切なものであると、私は思う。しかし、それは正しいものでなければならない。一人の宗教に携わる者として、尚一層自分を戒めて行くと同時に、日蓮聖人の貫かれた「依法不依人」の精神をしっかり自分の物として、私が信じる「本門佛立宗」の教えをしっかり、正しく伝えていかなければならないと強く感じた、ここ最近の私である。

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