大野式上総(かずさ)掘り

日本では蛇口をひねれば当たり前のように飲まれている水ですが、アフリカのケニアでは、何時間もかけて飲み水を汲みに行く生活を余儀なくされている集落があるそうです。しかもその水は私たちの想像する透明な水でなく、菌だらけの泥水が生活水となっているのです。 

ずいぶん前の話ですが、テレビ番組で大野篤志さんという方が取り上げられていました。大野さんは以前土木会社に勤めておられたのですが、ある日ケニアの干ばつ地帯では、赤痢やコレラという病気にかかって年間に150万人にのぼる子供が命を落としているという事実を知り、NGO「難民を助ける会」に参加されます。 

そこで自分にも何か出来ないかと考えた末に、大野さんの祖父が職業としていた千葉県上総地方で古くから伝わっている上総掘りという井戸の掘り方を思いつきました。そして、何年もかけて上総堀りを習得し、アフリカに渡航され、見事井戸を三本掘りあてられました。ケニアは一見すると干ばつ地帯に見えますが、実は地下にはキリマンジャロ山脈の雪解け水が大量に貯まっているそうです。 

しかし、わき水が豊富にあるといっても井戸を一本一本自分の手で掘っていたのではすべての子供たちに命の水を施すことは出来ません。そこで大野さんはアフリカの諺「飢えている友達がいたら魚を与えるのではなく魚の採り方を教えてあげなさい。」を教訓として現地の人々に井戸の掘り方を伝授されます。井戸の掘り方を教えると同時に、修理方法も教えることによって自分たちで井戸を管理できます。 

しかし、またもやここで大きな問題に悩まされます。井戸の心臓部とされるハネギという部分に従来は竹を使用しているのですが、アフリカでは簡単には竹が手に入りません。そこで大野さんは改良に改良をかさね、現地の資材だけで井戸を掘れる大野式上総掘りという新型の井戸を開発されたのです。大野さんは今も新型の上総掘りをケニアの人たちに伝えて、たくさんの子供たちの命を救っておられます。 

私は大野さんの活動をみて三つの事を学ばせて頂きました。一つは人を救いたいという気持ちを強くもつこと。二つ目に物よりも教えを施すことが、根本から人を救える道であること。三つ目に土地の環境や時代を考えて、その状況に見合った形をとることの大切さを学びました。 

これらは、ご信心でも同じ事がいえると思います。御題目で人を救いたいという菩提心をおこすこと。ご利益の頂き方を教えること。御弘通のためにアイデアをしぼることなど大野さんの活動に共通点があると思い、私たち仏立信者がさせて頂いている御奉公が大野篤志さんの活動に似ている事を嬉しく思いました。

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乗泉寺の教室

春は会社などで転勤がおこなわれる季節です。ブログ読者の諸兄にも、今春から新天地での勤めが始まったり、学校も進学したりクラス替えがあったりして、環境の変化にまごついておられる方がいらっしゃるかも知れません。 

しかし、生活の環境が新しく変わるということは、自分の成長を促す大きなチャンスともいえます。転勤して職場が変われば新たな仕事を覚えられますし、学校やクラスが替わることによって新しい友達もできるでしょう。通い慣れた職場や学校を離れて、過去に築き上げたモノが崩れてしまうのは誰でもツライことですが、新しい環境でドキドキしながら未来を築いていくのは楽しみでもあるはずです。 

一般的に、お坊さんといえば山などにこもって一箇所でジッと修行しているように思われがちです。転勤などとは無縁のようですけれども、乗泉寺の教務はそうでもありません。サラリーマンが会社の方針をうけて支店へ転勤するように、乗泉寺の教務はお導師のご指示をうけて別院や他寺院に出向して御奉公させて頂きます。私もいくつかのお寺で修行をさせて頂き、6年ぶりで渋谷へ帰ってきました。 

法華経開結に「随所楽」という言葉がありまして、御題目におすがりする信心を深めていくと、どんな環境にも動じない安定した精神状態を保てるそうです。そんな風にどこでご奉公させて頂くにも一定の心でいられれば良いのですが、実際のところは住む場所が変わるだけでも大変で、新しい土地の空気に馴染むまでずいぶん戸惑ってしまいます。 

特に、渋谷はたくさんの教務さんがいらっしゃいます。住まいの教務館は3フロアに分かれ、現在では各階に7・8名の教務が共同生活をしていますから、周りの人たちと上手く協調していかなければなりません。同じ部屋で暮らすということは、生活の隅隅まで人へさらけることになります。マイペースの度が過ぎると同室の先輩からは怒られるし後輩からは笑われます。渋谷に来る前は一人暮らしのような環境でしたから、何事をするにもマイペースですみました。 

しかし団体生活ではそうもいかない場合が多く、自分のペースを崩してでも全体のペースに合わせなければなりません。ま~今さらになって自分勝手のつけが回ってきたわけですが(笑)、多くの教務さんに囲まれて生活していると、周囲の徳によって自分の甘さが戒められていくように感じます。正直にいえば息苦しい面もあって未だノンキな一人暮らしを憧れたりするのですが、これも修行だと思えば、集団生活の中で色んなことを教えて頂けるのですから、何といっても有り難いことです。 

昔のことはよく知りませんが、やはり乗泉寺の教務室には15世日晨上人のお徳が備わっているようです。自分のようなだらしない一面をも汲みとって頂け、その上で、これから進むべき正しい方向を指し示して頂けるわけです。先輩の助言は歴史の深みがあって頼もしいモノですし、後輩の姿にも刺激を受けて「負けていられん!」という気持ちになります。幅広い年齢層の教務さん方が毎日近くにいらっしゃることで、一寸ずつでも自分という器を大きくして頂けるようです。 

乗泉寺・教務室の魅力がその懐の深さにあるよう、フィールドは違ってもそれぞれの会社や学校に素晴らしい美点があるはずです。お互いに、自分の境遇をただ嘆いているようだと、つまらないことばかり気になって、なにが楽しいことなのか分からなくなってしまいます。どんなにツライ状況であろうとも、どこかに楽しい一面があるはずで、小さな喜びをたくさん見つけられる人が、「随所楽」を得られるのでしょう。

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支え合い

朗読先日、ボランティアをされているご信者さんとお話をさせていただきました。

この方は、本や雑誌、新聞やその他のさまざまな文書を録音テープに吹き込むという活動をされています。 

これは、視覚に障害を抱えた人のためのもので、視力を失ったり、視力が著しく衰えた人で、点字を学ぶまでいかない方々にとって、音訳図書が唯一の情報源となることも少なくないそうであり、非常に重要な活動であるそうです。 

朗読といっても、地名や人名の正しい読み方、漢字の読み方など下調べをした上で朗読され、感情を入れず淡々と読むようにするなど、想像以上に大変で難しい作業だそうです。しかし、こういった活動のお陰で、視覚に障害を抱えた方は読みたい本を読むことができ情報を得ることができるということであります。 

金八先生が「人」という字は人が支え合って出来ていると言っています。確かに、私たちの知らないところで多くの方が支えてくれており、本当に素晴らしい活動をされていると感じます。 

先月、内閣府と警察庁から、昨年の自殺統計を公表されました。前年より1039人減少したものの、98年から14年連続で3万人を越えました。世の中にはまだまだ悩み苦しむ人が多いです。私も佛立菩薩として、そんな人達の支えになれるよう、しっかりと御奉公させていただかなければと痛感しました。

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字を書くこと

書道パソコンや携帯メールの普及によって、最近は手書きで文字を書く機会がだいぶ減ってきました。 

私は記憶している限り、幼小の頃は硬筆や習字等、学校で字の練習をする以外、字に関しては学んでいなく、これといって賞もとったことがないので、字はうまいとはとうてい言えません。 

ですから、キレイまたはわかりやすい字を書ける人に憧れています。 

そこで、ふと思ったことがあります。字というのは、「字は人柄を表す」と言葉があるように、手書きの文字からはある程度、書き手の人柄が出てくるものだと思います。そして何より、手書きの手紙を頂く時、私はいつも「あの人らしい字だ」と思い、一番は嬉しい気持ちになり、相手の思いも伝わるものであります。 

今では、携帯やスマホの普及とともに、メールが主流になっています。頻繁なやり取りは嬉しいものでありますが、どうしても挨拶程度に終わり、なかなか思いまでは伝わりません。どうでしょうか?相手に直筆で書く、字の上手い、下手に関わらず常に相手のことを考えながら、手紙やハガキも、たまには書いてみるのも良いものだと思いました。 

私は恥ずかしながら、あまりハガキや手紙を出したことはありません。字も自分の為だけしか書かなくなると上達はしません。ですから、相手に思いを伝える機会がなかったので、ただキレイにわかりやすい字を書くことだけに憧れがあったのだと思いました。 

昔の人が字が上手だなと感じるのも、パソコンやメールなどの普及もなく、手紙で、大事な方・好きな人に読んでもらおうとごく自然な心から、丁寧に書かれていたからこそだと思います。 

現代では自分の字を見て自信がなければ、書く行為はしません。なんとか文章をメールにして思いを伝える。手で書くと言うことは、メールと違って時間もかかりますし、相手に恥ずかしくないよう、いつも以上に神経を使って一字一字丁寧に書こうと努力します。ですから、その分例え短い文章になっても手書きのほうが、相手にとっては大変嬉しい思いをもって頂くものだと思います。 

今私は、佛立教務にならせて頂き、当然ながらお坊さんなので、字を書く機会が多いです。特にお塔婆は毎日浄書させていただいております。そして、お塔婆は、人に見ていただくものと自覚を持ち、またお塔婆をお上げするみなさんの、亡き故人へ思いを届ける手紙のようなものだと、先輩御講師から教わりますから、みなさんの思いを伝えさせて頂く為一本一本丁寧に書くように心がけております。 

入寺した当時よりは、自分でいうものなんですが、少しずつみれるような字になってきてると思います。慢心かもしれませんが、少しは、相手のことを思いながらの字が書けるようになったのかと思います。 

今もまだまだ人に褒められるような字ではありませんが、うまくなるため、自分の思いを表現する大切な事と思って、これから自信をもてるような字が、浄書出来るよう精進していきたいと思います。

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因果応報

仏教用語の教えの一つに「因果応報」という教えがあります。「因果応報」とは善い原因を作れば善い結果として報いる(善因善果)。反対に悪い原因には悪い結果が生まれる(悪因悪果)という教えです。どちらにしても原因と結果の二つがあり、原因なくして結果はあらわれず、結果なくして原因もありません。とても簡単な法則のようですが私たちはこの因果の道理をある程度分かりながらも、つい感情にまかせた行動をとってしまうものです。 

例えば暴力をふるったり、人の心を言葉で傷つけてしまう。あるいは何かを人に施すことよりも奪ったり盗んだりという愚かな行いをしてしまう。こういった事件は後を絶たず、結局は自分で自分の首を絞める結果を招いてしまっているのです。 

そこで仏様は因果の道理を理解できない私たちに御題目を残してくださいました。御題目を口に唱えることで私たちに悪い原因(罪障)を作らせず、良い原因(功徳)を作れるように、自然と導いていただけるのです。 

ご信心をされる前は、酒飲み、夜更かし、朝帰りで世間の道徳から外れた生活をおくっているような人が、入信後は、禁酒、早起き、朝参詣に変わり、今までの罪滅ぼしにとお寺や人の役にたつことを喜びとされているという御利益談はいくらでもございます。 

功徳という幸せの因や罪障という不幸の因は私たちの目には見えませんが開導日扇聖人は「道理文証よりも現証にすぎず」とお教えで、目に見えた結果である現証御利益という形で必ず現れてくると仰せです。世間でも論より証拠といわれるように確かな証拠があれば、疑わしい物事でも信じられるようになります。 

ご奉公を真剣にさせて頂けば必ず功徳が頂けます。そして果報となって実を結びます。ですからまずはお寺参詣をさせて頂き御題目をお唱えしてみましょう。普段の生活と何か違うことを必ず体感できます。

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満員電車の中から

オーソン・ウェルズお坊さん、というとお寺にばかりいるようですが、ご信者のお宅へ伺うときはたいがい電車で参ります。

その際には、乗泉寺教務部では日晨上人よりスーツにネクタイですから、頭を剃っている事を除けば、サラリーマンの方とほとんど変わりません。 

思えば高校入学以来、休日を除いてほぼ毎日お世話になっている電車ですが、いまだにこの満員電車だけは好きになれずヘキエキさせられます。 

どこからこれだけの、掃いて捨てたいほどの人が湧いてくるのか分かりませんが、うっとうしい事この上ない!というのは、多分隣にいるおじさんも、反対側のお姉さんもおなじ意見で、そういう私もハタから見れば、掃いて捨てたいうっとうしい人なのでしょう。文句をいう筋合いではないかもしれません。 

時たま人身事故が発生し、足止めを食うこともあります。そんな時は思わず周りから舌打ちが漏れますが、そのあとでハッとすることもしばしばです。――人身事故、ということは、電車に誰かが撥ねられて怪我をしたか亡くなった、という事だろう。それは笑いもすれば泣きもする人間であるはずで、その人には家族がいて、友達もいるのではないだろうか。その人たちはその事件によって、大きな変化を、悲しい変化を余儀なくされるのではないだろうか――。 

さて、電車は恵比寿に到着しました。流れてくる発車メロディは往年の名画「第三の男」のテーマソングです。この映画で、冷徹な闇商人を演じたオーソン・ウェルズは、観覧車から眼下を眺め、こう呟きました。「あの点の一つが永遠に止まる度に所得税抜きで2万ポンドやる、と言われたら断るかね?」

「あの点」とは上から見下ろした人々のこと。私がこの映画を観たときは、デモーニッシュ(悪魔的)な台詞の響きに小気味良い刺激を覚えたものですが、思えばこれほど残酷な言葉はありません。 

都会の雑踏は、たしかに「点」の集合体に違いありません。しかしその「点」の一つ一つは、それぞれに血の通った肉体と感情をもっており、代わりの利くものではありません。 

人ごみの中で肩をぶつけ合うことは、決して愉快なものではありません。それでも、ぶつけた肩にも痛みが残り、その奥には温もりがあることを決して忘れてはならない、と思いました。

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与同罪

佛立宗のご信心に「与同罪」という言葉があります。「与同」とは字義の上から、「同意して相手に力を貸すこと。仲間に入ること」という意味です。悪縁において、相手に力を貸すということが罪になってしまうというのです。 

世間でも、犯罪行為に対して、協力や擁護、隠蔽をすれば、直接犯罪を犯した本人は勿論、協力をした側の人間も罪に問われます。 

また、刑事上の事件や罰にはならないかも知れませんが、職場や学校でのいじめや小さな嘘や相手の過ちを、見て見ぬふりをしてしまった経験があるという方は少なからずいらっしゃると思います。そんな時には「出しゃばり過ぎとは思われたくはない、でもやっぱり・・。」と後味も悪いものですし、「あの時、自分に一声掛ける勇気があれば・・」と後悔することは多くございます。 

ご信心では、法華経のみ教えに反する相手の謗法(み教えに背く行為や心)を見ながら、聞きながらも「まあ、しかたがない」、「これぐらいなら」と捨て置いて、お折伏をさせて頂かなければ、その相手が犯した謗法と同じ罪を我が身に背負ってしまうと教えていただきます。この罪を「与同罪」といいます。 

私たちも幾らご信心をしているとはいえ、根が凡夫ですから、ちょっとした謗法、身近な所では、悪口や陰口、懈怠や慢心、不養生などを互いに犯してしまうことがあります。しかし、たとえ凡夫考えでは、僅かばかりの謗法であろうとも、私たちの御利益の妨げとなるだけでなく、悪い縁を招き寄せてしまうものです。 

私たちは、誰でも自分から、「間違っていた」と認めたくない心情があります。場合によっては、どんなに自分のことを思ってくれた忠告でも嫌う傾向があります。現代では、人に注意の出来る人が少なくなったと言われております。 

誰だって人間関係の問題で嫌な思いはしたくありません。ですから、御指南通りのお折伏に対して、どうしても尻込みをしてしまうことがあります。 

しかし、相手に対する本当の思いやり、慈悲の心とは、たとえその時は嫌な顔されても勇気を出して相手の間違えを正してあげること、気付いていただくことであります。その慈悲の心を先として、相手に注意を促す行為がお折伏という修行なのです。 

ですから、私たちご信者は、謗法となる相手の行いを「見ても見ぬふり」、「分っていても分らぬふり」、「聞いても聞かぬふり」をしないで、しっかりとお折伏をさせて頂くことが大切であり、自らも「与同罪」を免れるばかりか、巡り巡ってお互いの御利益感得にも繋がっていくものなのです。 

「与同罪」の教えは、まだまだ深い所にあると思いますが、これからの御奉公の課題として、私自身も与同罪について真摯に受け止めて日々精進して参ります。「与同罪一考part2」に続きます。

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必要性

片付け今月の7日より、修行と勉学に励むために京都の本山で暮らすこととなりました。それまでは渋谷でお世話になっており、当然ながら生活の場を移すので引っ越しをしなければなりません。 

当初、私は荷物もあまりないし、引っ越しにはそんなに時間がかからないと思っておりました。

ところが荷物が予想以上に多く、とても苦戦をして大変な思いをし、私は物の必要性について、ふと考えさせられました。 

あの時にはあれが必要になる、何かの時に必ず使うはずだ、と私にはいろいろ物を保存してしまう傾向があります。そうして、大事に棚やロッカーにしまい込んでいたものがいくつもありました。しかし、そのしまい込んだ物の必要性に迫られた記憶がほとんどありません。 

案外、何も使っていない物がゴロゴロありました。勿論、物は大切にしなければいけないと思いますが、その反面、物はその人の成長によっていつしか必要性が無くなっていくもので、あまり執着してもいけないものだと…。 

そんなことから、引っ越しの準備を進めて、段ボール箱に荷物を積める際に、これが本当に移動先でも必要なのかと考え、今回は思いきって処理することにしました。要は、物が少ない方が引っ越ししてからの開封作業が楽なだけなのですが… 

とにかく、これからは常に整理整頓を心がけて、2年間の京都の生活を送り、行学二道に励んでいきたいと思います。

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はじめの一歩

「こんなこと私はしたことがないからできません。」と、とかく私達は先々の不安や失敗の恐れ、苦労が伴うことから、自分の経験にないことに消極的なところがあるものです。 

しかし、仕事やスポーツなど何事もそうですが、続けてやってみると、だんだんと物事の整理ができてきて、コツなどが分り、それなりにできてくるものです。 

もちろん、そこには苦労や失敗もあり途中で諦めそうになることもありますが、そこを踏ん張って取り組んでいれば道が開けてきて、なんとも言えない充実感を味わえ、自分自身の成長へと繋がるものだと存じます。たとえ失敗したとしても、経験という得難いものは、少なからず残ります。 

反対に、いつまでも行動に移すことを躊躇していたのでは、自分自身の成長はなく、後で悔やむこととなってしまいます。ですから、やる前から無理だと自分判断をせず、とにかくやってみることが大切なのでございます。現実には厳しい所もありますが、一歩を踏み出さねば、次の一歩も踏み出せません。 

願うこと虚しからずと法華経に説かれております。御信心をしておりますと、御法様のお力添えをいただき、自分の力ではどうにもならない問題も、不思議と乗り越えていくことができるものです。ご奉公でも、教化・参詣・御有志など、難しく感じる御奉公もありますが、続けて行く中に御法様の後押しというものが必ずあり、御奉公は成就していくものです。 

ある御信者さんは、腰と脚の痛みで、薬を飲まなければ外出はもちろん、家事もままならない状態になりました。そんな時、部内の御信者さんから、「身体の御利益は身体の功徳で積んでいただくもの。」朝参詣に励むことの大事を教えていただきました。はじめのうちは、とても辛く何度もやめようと思ったのですが、続けているうちに段々と身体が楽になり、ふと気づくと薬の量がへっていたのです。御奉公もできるようになりお会式の御奉公をさせて頂くことになりました。「不思議なことに、御会式の御奉公を重ねるたびに症状が軽くなり、今ではすっかり薬との縁がきれてしまいました。お陰様で、現在私は健康な身体で毎朝お寺参詣、御奉公に励ませて頂いております。」 

このように、御奉公は無理だと思うことでも、させていただけば、御利益という御法様の後押しがあり、御奉公は必ず成就していくのです。境内の桜も満開近くになりました。明、明後日と御会式(門祖会)が奉修されますが、桜の花に目を楽しませながら、お互いに各部署での御奉公、お参詣にと身体を使った御奉公に励ませて頂きましょう。 

御教歌                                                                                                                                 していけば でけていくもの でけぬとて やめたらやめた だけのびんぼう 

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頑固

同期会小学校を卒業して早や半世紀、五十年を過ぎ、同級生共々に還暦を通過した訳である。 

いつの頃からか、四年に一度のオリンピック開催の年に同期会を開いて、小学生の頃へタイムスリップした中での、近況の交換をして来た。

その同期会が、ロンドンオリンピックに合わせて今年も開かれる事になった。  

先日、その準備の為の集まりがあったので出席した。その際に大いに感じたことは、容姿の老は去る事ながら、皆頑固になってしまったのには驚いた。 

各々の意見、思いを同期会に反映して、会を大いに楽しいものにして行こうとするその意気は結構なのだが、客観的に自分よりも隣の人の方が優れていれば、潔く引いて優れた意見を取り入れて協調する。 

そしてより良い同期会の内容づくりを、ということが出来ない。視野が相当に狭まっているということをお互いに気づいた訳である。中でも、つまらぬ事柄に執着して譲らない。いつまで経ってもまとまらぬまま時間切れ、となって後日へ持ち越しとなる。開催の日が迫るのに困ったオジさん、オバさん方、いやおじいちゃん、おばあちゃんの域かなとも思う。 

開導聖人の御教歌
ことわざに人のふり見てわがふりを なほせといふはよきをしへかな

そこで、我身を顧みて、はたして自分は如何。気が付かずとも、結構な頑固者で人さまに不愉快さを振りまいているのかなとの思いをもっての反省すことしきり。

しかし、周りの人たちは悪しき我が侭振舞に、いやな顔一ツせずにいつも傍に居てくれる。ありがとう。満開も間近な「さくら」の散り際の潔さを身に添えていくことを思う今日この頃。

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エイプリルフール

その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だった少女までもが含まれていた。 

フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事件を忘れないために、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっていった。これがエイプリルフールの始まりであるという説がある。 

また、インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、4月1日を「揶揄節(やゆせつ)」(からかうの意)と呼んでからかったことによるとする説もある。 

4月1日には、世界中で新聞が嘘の内容の記事を掲載したり、TVニュースでジョークニュースを報道したりといった事が広く行われている。インターネットが普及してからは、ウェブサイトでジョークコンテンツを公開するといったことも行われている。 ジョークの規模についても、簡易なものから大きな労力をつぎ込んだものまで存在し、ウェブサイトにおいては個人発から大手企業発まである。 

逆に習慣を逆手にとって、ありえない内容に見えて事実の内容であったり、翌日以降に「嘘ではない」「本当に実施する」といった裏の裏をかいた記事が書かれることもある。これらのネタは、一種のファンサービスの行為にもなり、一種のお祭りとみなすことも出来る。 

中でも、2005年に日本の新聞社が掲載した「スマトラ沖地震の余波で沖縄南端に新島が出現」という記事を、韓国の新聞社がニュースとして掲載するなど、別のメディアが真に受けて情報元のメディアに騙されてしまった事例もある。また、エイプリルフールに便乗し、4月1日に発動するコンピュータウィルスを設置するなどの犯罪行為が行われることもある。 

昨年は東日本大震災直後ということもあり控えめだったが、今年は復興のためにも、笑顔は大切。でも、羽目を外さないようにが肝心。 

エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(四月の魚)と呼ばれる。

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