暑さ寒さも

八王子別院今年の夏は、例年に無く異常な暑さで、9月に入ってからも各地で真夏日が続いておりました。

八王子別院で秋季彼岸会を奉修させて頂く私共としましては、当日の天気が何より気がかりでありましたが、初めの頃は週間予報でも、秋分の日も気温が30度近くまで上がるような話でしたので、扇風機の大型を一台と卓上のものを一台、急いで用意しました。

しかし当日になってみると、回向堂は、エアコンを除湿に設定し、扇風機一台を弱めにかけるだけで十分な陽気となりました。朝方降っていた雨も11時の法要開始までには上がり、墓地廻りも無事に終了致しました。 

これも偏に、ご法様からの御力添えと感得させて頂き同時に、猛暑の中、草刈りや受付等の御奉公にお励み下さった皆様に、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

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健康体

ダンベル今月から私は、久しぶりに高校生活以降滞っていた体を鍛えることを再開しました。 

その理由は、この夏、毎日お寺にお参詣に来られるご信者さん、たまに会う家族、久々に再会した友人と全ての人に「痩せたね、ちゃんと食べてる?」と心配されてしまったからであります。

もともと私は線が細い体型なので自分では気付きませんでした。体重を量ってみても夏前の健康診断から3キロ落ちている程度で、激ヤセしてるわけでもありません。

ですが、教務として「日々の御奉公させて頂くにも、まずは健康な体が大事でありますから、体調管理には気をつけて下さい」と、言っている身です。それが逆に、心配されてしまっては情けないと思い、自分の体の事を考えるようになりました。

この夏は猛暑続きで何もしていなくても、汗をかいたり、疲れが出るなどして体重が減りますし、また、日頃の生活を見直して見ましても、食事の量が減ったり、麺類など、食べやすいものに偏ってしまってたことも原因であるかと思います。

私達の日々の信行御奉公、又は生活の中で、仕事に励む。美味しいものを食べる。旅行に行く。趣味を楽しむなど、何をするにしても、まずは「健康である」ということが大前提であります。

そこで、「食の改善」と、ただ食べて体重を増やしては、脂肪に変わってしまうだけで、健康面で大事なのは、「適度な運動」をして筋力を付ける事が大切でありますから、高校の頃のように、体脂肪一桁台で、体重は今より8キロ多かった理想の体型を取り戻すべく、筋トレを開始しました。

何年かぶりに、しっかり腕立て・腹筋をしました。高校時代には腹筋一日300回をノルマとし、頑張っていましたが、今ではそれには到底及びません。完全に筋力は衰え、久々に筋肉を動かした結果、残るのは翌日にくる筋肉痛。自分の体はさぞビックリしていることでしょう。

まだまだ始めたばかりですが、体を鍛える事も、自分の健康管理をする上では大事なことであります。そして理想と目標をしっかり持って、何事にも日々継続して行う事で、心も体も鍛えられるものであります。面倒くさくなってやめてしまったら意味がありません。

私は明るく、元気に、楽しく御奉公させて頂く為にも、健康な体作りに励んおります。

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暑気払い・後編

屋形船先日、青年教務会の暑気払いで落語を見に行ったのですが、落語を見終わると「あみ新」という屋形船をお借りして、みんなで食事をさせて頂きました。 

私は、屋形船に乗るのは生まれて初めてだったので、どんな舟なんだろう。船酔いしないかな。おいしい料理が食べられるのかな等と期待と不安に胸をふくらませておりました。

そして、いざ屋形船に乗り込むと、天井は少し低いものの、ゆったりくつろげるほど広く、カラオケまでついていることに感激しました。 

しかも料理もお弁当かお膳で運ばれてくるのかと思いきや、きっちりとした会席料理で、お通しの後、お刺身の盛り合わせ、焼き鳥、天ぷら、煮物など大変豪華な献立となっており、その味付けも抜群においしく、天ぷらは揚げたてサクサクで満腹になるまで召し上がりました。 

普段はおとなしくされているお教務さん達もこの日ばかりは、子供に戻ったかのように、我を忘れてはしゃぎ、みんなで歌ったり、踊ったりと大変盛り上がりました。 

そしてなんといっても屋形船からの眺めがとても綺麗でした。レインボーブリッジ、お台場、スカイツリーなど東京の観光名所を川から見上げることが出来るのは屋形船ならではの醍醐味なんだろうと感じました。

また、その日は、ちょうどパラリンピックの開催日とスカイツリー開設100日記念が重なり、普段は見ることの出来ないスカイツリーの特別イルミネーションを見ることができ、ラッキーな日に乗船させて頂いたことを嬉しく思いました。最後は、あみ新さんからお土産まで頂き、とても親切にして下さったことに感謝の気持ちでいっぱいで帰ることができました。

恥ずかしながら、私は今まで青年教務会の催しにあまり参加していませんでした。今回暑気払いに参加させて頂いて、落語や屋形船といった今まで経験したことのなかったものに触れさせて頂く機会を頂けたことがとても楽しく、何事もチャレンジしてみなければいけないなと反省させられた次第です。

青年教務会の御奉公では、同じ世代のお教務さん達がどういった気持ちで御奉公をされているのか。個人個人の御奉公での悩みや各寺院の問題などを聞かせて頂ける良い機会でもあることに今回の暑気払いを通して感じたので、これからも青年教務会の御奉公に積極的に参加させて頂こうと思いました。

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お土産

心の贈り物先日、京都にて、私の生涯の中で、師匠や親と同じくらいお世話になっている(本当は迷惑ばかりかけている)方と会いました。 

この方は、私の幼少のころからお世話になっている学習塾の先生なのですが(以下恩師と呼ばせていただきます)現在に至るまで、勉強のことはもちろん、社会のルール、モラル、そしてご信心のことなど、いろいろと相談させていただきました。

その都度、恩師は私の話を親身になって聞いてくださり、どうすれば良いかを教えていただけました。 

そんな恩師に私は時に生意気なことをいって迷惑をかけてしまうことがあります。長いお付き合いなので、恩師の懐の深さについ甘えてしまうのだと思います。成人した今でも、たまに迷惑をかけてしまい、成長していない自分をただただ反省するのみです。

その恩師が特にやかましいほど教えていただいたことがあります。それは、他人さまへの礼儀、感謝、親切でした。

そのため今回も、京都で会うことになりますと、必ず会う前日に電話を掛けて連絡をして下さり、そしてお土産(旬のおいしいもの)を宅急便で送り、さらに重い品物をわざわざ遠いところ時間をかけて、持参してくるほどの方です。これはそうとうの心遣いがなければ、出来ない至難の業だと感じました。

私は、特に恩師に対して、これといった恩返しもできていないのにも関わらず、どういうわけかこんな私にまで、ここまで尽くしてくれるのです。本当に頭が下がります。恩師も親や誰かから教わったことなのかなと思いました。

私には到底、恩師と同じようなことはできません。ただ自分も相手のことを思い、親切を振る舞えようにするのが、恩師の恩に報いる行いだと思いますので、今の自分にできることを少しずつでも行いに表していきたいです。

日々の生活や雑用におわれ、恩師の心を忘れやすい私ですが、今回、お会いさせていただいたことで大切な心を改めて大事にしなければと感じました。それが私にとって、大きなお土産でした。恩師、本当にありがとうございました。

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得度から3年

私事ですが、得度をさせていただいてはや3年が過ぎました。長いようですが、本当にアッという間で、初めて御衣に袖を通した日が昨日のことのようです。しかし何といっても、毎日変わらずにさせていただかなくのが、御宝前のお掃除です。 

ある老舗の一流ホテルで長年接客係をされている方のお話を思い出しました。この方は、18歳で夢を抱いてそのホテルの門をくぐりました。お城のように素敵なそのホテルで、世界中から集まる紳士や淑女に囲まれ、楽しく仕事ができる、と甘い期待に心をときめかせたのも束の間。まず初めにお掃除を、それも一般家庭では想像もつかないほどの、厳しい指導と訓練を徹底的に叩き込まれたのです。 

何とトイレはブラシを使わず、手で洗えといわれたそうです。しかし決していやがらせではありません。自分の手でさわってもいやではないほど、ピカピカに磨き上げ、お客様をお迎えするように、との配慮なのです。他にも、信じられないくらいの細やかな神経で仕事をこなしたお話が続きました。 

石の上にも3年、と言われますが、この方はあまりのつらさに3日で音を上げ、上司に相談をしたところ、「あなたがここに入社できた、ということは、入社したくてもできなかった他の人がいたということですよ」と諭されました。そして、「辛いけど、我慢して続けます」と答えたところ、「そうではなくて、楽しく仕事をすることが秘訣です」とまた教えられたというのです。 

この話から私は多くの示唆を与えられました。些細なことも決してゆるがせにしないこと。常に相手の目線に立って考え、行動すること。どんな仕事でも使命感を持ってやり遂げること。そして、それを好きになり、楽しむこと。 

このような気持ちで、世の中の人々が毎日仕事に臨んだら、どんなによい社会が実現するでしょう。私も教務という立場に立たせていただけた以上、さらに良い御奉公ができるように、また少しでも社会の役に立てるよう、決意を新たにしています。得度から3年が過ぎました。まだ始まったばかりです。

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竜ノ口御法難②

この光り物ということについては、近代の学者さんの研究に所説あって、その事実は誰も分かりませんが、それと関連するかの如く、法華経の観世音菩薩普門品には次のように示されています。 

「良家の息子・無尽意よ、もしも誰かある人が(死刑の判決を受け)処刑されるべき状態に置かれていて、観世音の名前を叫んで救助を求めるならば、それらの死刑執行人たちの、それらの剣は粉々に砕けるであろう」と、このようにびっくりするほど話が符合いたします。

この法華経の顛末は、無尽意という良家の息子が、仏様に対して観世音菩薩とは、どんなお方かとお伺いを立てます。すると仏様はそれに応えて、この菩薩は妙法の経力によって、種々の利益を顕すのだと、お教えくだされたのでございます。そして、これを聞いた無尽意は大変に随喜し、是非とも観世音菩薩に首飾りのご供養を差し上げたいと申し出ます。

ところが、観世音菩薩は無尽意から頂いた高価な首飾りを二つにわって、片方を釈迦牟尼如来へ、もう片方を多宝如来へと献上されました。これの意味するところは、如来滅の御文に「その本尊の体たらく、塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏多宝仏」とあるように、このお二人の仏様は妙法の御本尊を顕しておられるわけであります。

つまり、観世音菩薩が衆生を救うのも、全て妙法のお力によるのだからと、後世の我々に誤解を与えないために、わざわざ首飾りを二つに割って、そのご供養を御題目の御本尊へと捧げられたのでございます。

そして、このようなことからも、お祖師様は法華経に嘘偽りのないこと、その一言一句が真実なることを、龍ノ口の現証によって証明してくだされました。

それはまさに、良寛に対する信念をかけたお折伏。首切り処刑という困難にもひるまない受持の心。一切の苦難は法華経のためと喜びに変え、御題目に全てを託して最後まで口唱を貫かれる姿勢、そこに顕れた現証こそが起死回生の龍ノ口の御利益でありました。

そしてこの現証御利益こそ、お祖師様の末弟である我々を、真の正しいみ教えへと導いてくれるのであります。法華経の真実を証明しようとすればどうするのが一番良いのか。それを考えるとき、理屈や理論を以て正義を押し通そうとしても、それでは世間から恨みを買うのみ、どんなに正しい証拠や根拠を突きつけても、それでは人から疎んぜられるのみ、結局この世で、世間と人とを変え得るのは、現証という事実のみしかありません。

我々がいただく御利益にしましても、自らの身を以て現証を感得するならば、そこに起きたる信心は、何年経っても色あせることはありません。御題目を口唱することによって、事実、自分の身が良くなった、心が解放された、現実に窮地から救われた、病気が良くなった、実際に商売が繁盛した、家族が円満になったと、そのように、そうした現証を背景として真の信心が起きるのであり、それがまた、折伏の原動力となって、貴方も御題目をお唱えなさいと、人にも御題目をお勧めさせていただけるようにもなるわけです。

ですから、そうした意味で、江ノ島の光り物とは、お祖師様の我々末弟に対するお折伏の現証です。よって、私たちはこの御利益の意味をよく噛みしめて、ご信心に対するゆるぎない自信と、折伏に対するひるまない勇気とをもつことが大事なのでございます。

「龍ノ口の巨難 江ノ島の光物等 これ本化の菩薩の現証也」とお示しでございます。

我々ご信者の心に時として迷いの雲がかかるように、お祖師様のお心にも一つの迷いがありました。お祖師様にとっての迷いとは、ご自身が本化上行菩薩であるかどうか、ということ。お経文に基づく折伏の実践から、推測はできるものの、それが確信に至らない。

しかし、この龍ノ口での出来事によって、法華経の真実性と、自己の正当性とが、現証の確実性によって立証されたわけでございます。従ってのち、佐渡へ島流しとなったお祖師様は、上行後身を公にされるのであり、弟子信徒へのお手紙でも、そのことを伝えて啓発激励、人々の迷いの雲を払われていくのでございます。

お互いに、お祖師様のような強い信心はございませんが、そのお祖師様に一歩でも近づけますようにと、今日という日を単なる記念日として止めず、自身の信心前を改良・増進させてまいりましょう。

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竜ノ口御法難①

12日はお祖師様が江ノ島の竜ノ口でご法難に遭遇された日でございます。1267年、今から745年前の夏(2012から遡ること)、当時の日本ではひどい日照りが続いたそうであります。長い間、一滴の雨も降らなかったので、農業に必要な水も枯れ果ててしまいました。 

この旱魃の事態は農民だけの悩みに止まらず、幕府としても何とかしなければならないと、その対策としてある有名なお坊さんに頼んで、雨乞いの祈祷を行ったそうでございます。 

僧侶の名は良寛房忍性、極楽寺の良寛といえば、巷でも有名でした。雨乞いの話を引き受けた良寛。6月18日から崖の上で祈祷を始めます。 

お祖師様はその話を聞いて「良寛の祈祷が七日中に成就するならば、私は良寛の弟子になろう。しかし出来なければ、良寛房は人々の心をかどわかす詐欺師といえるが、それでよろしいか」と仰ります。 

これを聞いた良観は、その話に喜んで応じました。ところがです。多数の弟子を伴っての雨乞いも全く効を奏しません。諦めきれないので、約束の七日を過ぎてもなお、二週間以上にわたって雨乞いを行いました。しかし、その結果は雨が降るどころか、暴風が吹きあれてしまいました。 

この有り様に対してお祖師様は、「雨をふらす方法と正しい仏の道を教えてあげよう。結局貴方は七日の内に雨をふらすことができなかったではないか。それどころか、旱魃はいよいよひどくなるばかりで、更には大風が吹き重なり、民の嘆きは一層深刻になってしまった。いい加減にして、すみやかに其の祈祷をやめなさい」(頼基陳状)と良寛房をたしなめられます。 

このことをキッカケとして、良寛房はお祖師様を逆恨みし、日蓮憎しという感情から幕府を利用してお祖師様の暗殺をたくらみました。これが龍ノ口ご法難の経緯であります。 

龍ノ口は昔からの処刑場です。逆恨みの良寛などの邪宗邪教という進達を受けて、幕府はお祖師様は首切り台の上に座らさせました。その時、お祖師様は朗々と引き題目をお唱えしながら、法華経に命を捧げることに、何のためらいもありません。 

そのすぐ近くでは、四条金吾さんが殉死を覚悟して見つめています。首切り役人の名は本間直重、その手には銘刀蛇胴丸、そして闇夜に振り上げられた刀が、今まさに振り下ろされるその瞬間、丸い月とも鞠ともいえるような光り物が現れて、闇夜がパット白めくと、刀は三つに折れて空に弾け飛んだと伝えられます。

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不安の力を読んで

不安の力京都での御奉公を終え、乗泉寺に帰るときに品川駅の書店でこの本を購入しました。その理由は、「不安の力」という題名に一目惚れしたからでした。

不安という言葉は、決してプラスのイメージはないのですが、「不安の力」という題名には何かしら希望のようなものを感じたのでした。 

作者の五木寛之氏はまず自分の心身の「不安」を著わし、その後十項目に分けて社会における様々な不安について述べています。

 

一、いま、だれもが抱える不安  二、「こころの戦争」に傷ついてしまう不安

三、若さが失われていくことへの不安 四、真に頼るものが持てない不安

五、時代にとり残されることへの不安 六、暴発するかもしれない自分への不安

七、働く場所が見つからない不安 八、病気と死の影におびえる不安

九、すべてが信じられないことの不安 十、本当の自分が見つからない不安

以上が著者があげた十項目の不安であります。

ひとつひとつ読んで感じたことは、切実な不安を抱えて生きている人が沢山いるということでした。心療内科に通う人の不安、「こころの戦争」で傷つき自殺に向う人、老いや成熟が悪とされる社会に生きる高齢者の不安、一生フリーターで生きれるか悩んでいる人など今の社会には「不安」を抱えている人が非常に多いようです。この「不安」を作者は次のように述べています。

「いま、不安はこれまでになかったほどの社会的現象としてひろまっている。それは、逆の見かたをすれば、<人間らしさ>の最後の砦が守られているということにほかならないと思います。不安を感じるのは、人間がまだ<人間らしさ>を失っていない、という希望に通じていることだ。ぼくはそんなふうにかんがえています。不安は希望の土台です。不安を感じることが、人間が人間としてあるということの出発点なのです。」 

誰しも不安から逃れたいと思うわけでありますが、そこをあえて受け入れて行く中に希望というゴールがあり、不安を感じることこそ「人間らしさ」すなわち生きていることの証しであると著者は述べています。 

この本を読んで、私は見方を変えれば、不安は一種の生きる力になると思ったのでした。私にも不安は沢山ありますが、不安があるからこそ、日頃のご奉公にも力が入るし、お看経の有り難さを知ることができるのではないでしょうか。また、教務同士もそれぞれ不安がある中で励まし合い話し合い、切磋琢磨して日々を過ごせることの大切さも感じる事ができました。

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御利益の頂き方

御利益にはいろいろな顕れ方があります。

一つ目は、「顕祈顕応」といいまして、お願いごとを明確にして祈り、そのお願いがすぐに叶う顕れ方で、私たちの多くが御利益と考えているのは浅はかながら、この形でいただく場合が多いようです。 

二つ目は、「顕祈冥応」といい、目標を立てて懸命に祈り、その願いとは違う形で顕れるものです。高校や大学受験などで志望する学校の合格を必死に祈るが、不合格となり違う学校に行くことになる。しかし、振り返ってみると、その学校の方が自分にあっていた。 

また、仕事上で商談の日までに病気を治したいと祈るが、病気は治らない。しかし、商談の日に交通機関で大事故があり、思わぬ災難から逃れた。というような顕れ方です。 

私たちはとかく目先のことしか考えませんが、仏様は将来をちゃんとお見通しです。ご祈願さえしっかりできていれば必ず私達を間違えのない方向に導いてくれます。叶わぬも御利益ということも感得することが大切です。 

三つ目は、「冥祈顕応」といい、これといった特別な願いはないが、いつも怠ることなく御題目口唱に励んでいることで、事に触れて顕れる御利益です。乗っている車が事故にあったが、かすり傷一つしない、不景気で会社が倒産してもおかしくないのに不思議と仕事が入ってくる。というような顕れ方です。不断の信心のお陰で来るはずの災難をまぬがれることができるのです。 

四つ目は「冥祈冥応」といい、いつも怠ることなく御題目口唱に励んでいることで、日々平穏に生活を送れるという、目に見えない御利益の顕れ方です。ちょうどそれは、魚が悠々と尾ひれをのばして海を泳ぎ、私人間が存分に空気を吸っているように、限りない仏様の大きなお守りを不断にいただいているのです。 

御題目を日々、しっかりとお唱えさえしていれば何れかの御利益を感じ得ることができます。お互いに日々の御題目口唱を怠りなくさせていただきましょう。

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