被災地復興支援助行

風邪が流行っています。朝晩共に冷え込む季節となりました。雪国の寒さはいかばかりでしょうか。私は今月19日、佛立修学塾(教務の勉強会)の一環として行われた、被災地復興支援のお助行に参加させていただきました。 

今回は郡山にある遠泉寺(おんせんじ)に伺いました。あの大震災からはや1年と8カ月が経とうとしています。あの日、それぞれの人がそれぞれの場所で恐ろしい時を過ごし、現在に至っているわけですが、復旧の整った大都市に起居し、日々の雑事に紛れておりますと、正直なところ、喉元過ぎて熱さを忘れかけている感が否めません。

そうした中で参加した今回の旅でしたが、現地での厳しい現実や、そこで生活する人達の姿に触れ、改めて身の引き締まる思いがいたしました。

ここ渋谷を午前9時にバスで出発し、現地で遠泉寺の栢森清洋御住職にお会いし、バスの中から詳しい御説明をしていただきました。当地は震災当初、市役所をはじめ建物の損壊が激しく、現在はその多くがコンビニや駐車場に変わっているとの事。またコースを変更して、仮設住宅も外側から拝見いたしました。こちらはご自宅が原発20キロ以内で、戻る事の出来ない方々のお住まいです。4畳2間に一家族が生活されているとの事でした。

遠泉寺では、参加した教務師38名によるお助行が行われました。みなさんが気持ちを一つにそろえてのお看経。本堂には復興を心から願う熱のこもった御題目の音声が響きわたりました。この本堂も実は仮本堂で、以前は偉容を誇った旧本堂も、このたびの地震で損傷した二階部分を取り払い、現在は一階のみとなっております。そのため、新本堂再建をめざし、再建御有志を勧募しておられるとのことでした。

お助行後の御挨拶で、栢森御住職は「みなさんのお看経をいただけたことが何よりうれしい」と声を詰まらせておられました。そのお言葉から、厳しい状況でこれまで闘ってこられた御心中を拝察し、胸に迫るものを感じました。その他の被害に遭われた方々も、強い忍耐と助け合いの心で、お互いの傷を温め合われているのです。やはり資金援助のみでなく、直に被災地を訪れて、その土地の空気を肌で感じ、地元の方々と触れあう事。またわずかでもその痛みに共感する事に意義があるのだと痛感しました。

境内の木々は色づき、深まる秋の風情でした。私達を癒してくれると同時に、ときには恐ろしいきまぐれをも起す大自然。あの日、猛り狂った海も今ではおだやかに凪いで、私達に恵みを与えてくれます。

原発の問題をはじめ、まだまだ問題は山積みです。この大きな問題を前にして、私達にできる事はやはり祈る事です。今回の震災は私達に、文明が万能でなく時には無力であることを教えました。祈るという原初のおこないに立ち返り、引き続き復興支援に努めたいと思います。本日も第2班が福島の福泉寺(ふくせんじ)にお助行に行かせて頂いております。

 

Share on Facebook

頂きます

いただきます♪さて、日本では食事の前に「頂きます」という習慣があります。

一度の食事はたかだか数十分で終わりますが、その食事を作る人の苦労は大変なモノで、よく考えると肉一切れ野菜一片の中にも、それを育てた人の何年という苦心がこもっています。 

それなのに、これはすぐに食べ終えてしまったから、大した価値はないだろうと、単純に考えるとしたら、作り手の思いを踏みにじる失礼に当たります。従って、食事の前には「慎んで頂きます」という心で一回ずつ感謝を込めるのでしょう。

目には見えない陰の苦労を知る、それが日本人の優れた感性といえるわけで、実は仏教によって培われた、報恩感謝の心であります。

仏教の広大な教えの中でも、最高の教えである法華経は、み仏のご苦心の賜であります。み仏は久遠という遠い昔に、長年の菩薩行で培った結果を、御題目の珠で一括りにされ、末法へ譲り与えて下さいました。才覚のない者に無理なことをせよとは仰らず、誰でも仏になれる方法はないかと、ご自身がいなくなった後のことまでお考えになられたのです。

生まれたばかりの赤ん坊に、肉や野菜を食べさせようとしても飲み込めず、最初はミルクという完全食で育てるように、成仏に必要な栄養分を、完全に具えた御題目で、末法の我々をお導き下されるのであります。

そして、赤ん坊がやがて離乳食を食べるようになって、独り立ちの準備が進んでいくように、お互いも自分が御題目を唱えるところから一歩成長し、他の人にも御題目をお勧めして、一人の菩薩として世の中に立ち、ご弘通に力を尽くすのです。み仏のお慈悲を広くみんなと共有しあい、成仏という偉大な境地へ向かって、力を合わせて進んでいこうじゃないかと、スクラムを組むのであります。

それにも関わらず、御看経は単純だからと思い、御題目を適当に唱えるとしたら、み仏のご苦労を分かろうとしない、恩知らずとなってしまいます。また、いつまで経っても自分のことしか考えず、人を思いやる気持ちが起きないとしたら、それはみ仏のお慈悲を無礙にする、不甲斐ない信心といえます。

ですから、お互いが御看経に臨む際には「み仏のお慈悲に感謝します」という真心をこめて「御看経を頂く」という表現をするのです。御題目を信心で頂き、一遍も無駄にしない。ご弘通を真剣に思い、み仏の恵みを共有する。その真っ直ぐな口唱と折伏によって、み仏のお意と一つにつながり、ご苦心の賜が、即座に譲り与えられるのでございます。

Share on Facebook

睡眠人間は、一生で計算すると、平均して約4年間に相当する時間、夢を見ていることになるそうです。 

家族や友人、憧れの人などが出てきたとか、ビルの屋上から落ちそうになったとか、何か気になる夢を見たときは、「自分では気づかないけど、これって深層心理なのかな?」「何かの暗示かも!?」などと、夢の意味を考えてしまう人も、きっと少なくないはずです。

さらに夢は正夢、逆夢、デジャビュといった現象もあり、不思議な経験をした方もおられると思います。私は専門家ではないので、その意味や、原理は説明できませんが、夢は不思議で謎めいていますよね。

また夢にはいろいろと心の心情をあらわすともいわれますが、私はそのような事は気にせず、ただ毎回違う夢の世界を楽しんでおります。

本日はマラソンの夢。東京新宿がスタート。ゴールが定まっていないが、なぜか競いあっている。夢はコロコロ場面が変わる。走ってたとおもえば、実況してたり、沿道でランナーを応援したり、途中で止まるランナーのお世話したり、最終的に走っている自分の格好はスーツ姿。さて、自分の心の心情は何を表しているのでしょうか(笑)ん~不思議。

夢を見ることは、眠りが浅く、疲れもとれていない証ともいわれますが、時には恐怖で起きる、笑って起きる、現実と夢か勘違いして起きる等、自分が予想もつかない場面が繰り広げられるのが夢であり、その現実ばなれした世界を見ることを私は楽しみとしています。

Share on Facebook

小布施

先達て時間が空いたので、長野県は小布施に行ってきました。ご存じとは思いますが、「おふせ」ではなく「おぶせ」と読みます。江戸時代は幕府直轄の天領だったそうで、何かのどかで、少し文化の香が感じ取られる場所です。長野ですからリンゴもありますが、有名なのは栗です。新栗の「おこわ」が目的でした。 

また、ここには葛飾北斎が晩年に長逗留したことから、作品も多く残っていて「北斎館」という美術館もあります。日帰りでは十分ではありませんが、強行軍で行ってきました。 

小布施堂栗は「小布施堂」「竹風堂」などが有名です。「栗鹿の子」「栗アイスクリーム」などが趣ある老舗店舗で選べます。建物としては「小布施堂」が一番好きですが、その店先では「栗おこわ」は買えません。少し離れた「蔵」という食事処(小布施堂経営)で頂く予定でしたが、お店は一杯、予約も一杯。しょうがなく諦めて、「北斎館」の見学に行きました。

風景①館には、土地のお祭りの山車に描かれた龍などの北斎真筆の絵や、一連の北斎漫画(印刷物)、草花などの静物画の展示があります。小布施と北斎の関わりがかいま見えるものでした。私の趣味として、美術館に行ったら展示作品のクリヤファイルを買うというのがありますので、帰りに「富士越龍」(部分)のファイルを買いました。 

陽も落ちかけて来たので、持ち帰りが出来る「竹風堂」で「栗おこわ」を予約して、次に移動しました。本当は知らせたくはないのですが、この地には、美味しいワインがあります。夏暑く冬寒い、一日でも寒暖の差があるところはブドウには良い所です。小さなワイナリーを訪ねました。

風景②このワイナリーは昔は酒造で、日本酒をつくっていたそうですが、今は主として美味しいワインを作っておられます。なぜ日本酒党の私がこのワイナリーを知ったかということですが、2年前にこのワイナリーが昔からの醸造を復活させ、少量ながら出された1本の純米吟醸(酒米は美山錦)と巡り会えたのがきっかけでした。シャンパンボトルに収まったそれは、見てくれで買った私を大いに反省させるものでした。 

今回はまだ新酒はありませんが、ここの美味しいシャルドネ(シロ)を買って来ました。来年の春が楽しみです。帰りに予約の「栗おこわ」を買って、家でおいしく頂きました。

Share on Facebook

第二の矢

ある時、仏様は弟子達に次のような問題を出されました。「私の教えを受ける者も、受けない者も、美しい花を見たら美しいと思い、痛い目に遭えば痛い、苦しいと思うことに変わりありません。それでは一体教えを受ける者と受けない者との違いはどこにあるのであろうか」と。

弟子達はしばし考えましたが、明解な答えを見出せず、佛様に教えを請いました。そこで佛様は次のようにお答えになられました。

「教えを受けぬ人々は、苦しみを受けると嘆き悲しんでいよいよ迷う。丁度、第一の矢を受けて第二の矢を受けることに似ている。教えを受けた人とは、苦しみを受けてもいたずらに嘆き悲しんで迷ったりはしない。丁度、第一の矢を受けても、第二の矢を受けないことと同じである。」と。

この佛教説話は、ご信心をされていない世間の人々と私たちご信者の違いをお示しです。

ご信心をするしないに係わらず私たちの身の上には、予期せぬ災い(火・盗・病・不慮の諸難)は訪れるものですけれど、そこでいたずらに自分の不幸を嘆き悲しんだり、愚痴や怒りの心に捕らわれてしまっていては、自分自身が更なる不幸の種まき、不幸の縁を作っているようなも状態にあると言えます。

しかし、その様な心では結果としてここで言う「第二の矢」に打ち抜かれてしまいかねません。私たちご信者は、たとえどんな境遇にあろうと、また予期せぬ困難に直面しようとも、御題目をお唱えし、御法門聴聞を通して物事を「良く」受け取らせて頂くということが出来ます。

ちょっと思い方を変えさせて頂けば、どんな最悪の状況の中にあっても一抹の光明を見出すことが出来るものです。くよくよしたり、人のせいにしたり、愚痴を言って、第二の矢を自分自身で生み出してしまうのが私たち凡夫の性です。

佛様のみ教えを通して、前向きで謙虚な生き方を身に付けさせて頂くと共に、御題目を日々お唱えして、佛様のご守護やお導きに預からせて頂きましょう。

Share on Facebook

アブラ

Tarzan今年の初めからダイエットをしているのですが、最初の内は大変効率よく体重が減少していたのに、最近、特に9月頃から減少がストップしてしまいました。むしろ少しずつ増加しているようで、少々気落ちしています。 

9月から行き始めた歯医者さんに、ダイエットに関係する興味深い雑誌があったので、ご紹介します。 

Tarzan No.603「「油」と「脂」のガイドライン」というタイトルで両方とも「アブラ」と読みます。ダイエットに関心がある方は、え!となると思いますが、抜粋してみます。 

 

『人を食欲の奴隷にするあの罪作りなアブラ。腹に溜ったこのやっかいな脂。今回のお題は、みんなが大好き、でも憎い、愛憎の念入り混じったアブラである。太りたくないなら答えはひとつ、アブラをひたすら避けりゃいい。そんな風に思い込んでいる人、それは大変な勘違い。だって脂はカラダに必須、なくてはならない重要な栄養素。むやみに絶てば、たちまちカラダは悲鳴を上げる。然るべき摂り方、減らし方を知れば、決して怖がる必要はない。』云々。凄いサブタイトルでしょう。… 

続いて抜粋させていただきます…『「脂なしでは生きられない、7つの理由」カラダを構成しているのは、水分、ミネラル、タンパク質、そして脂質である。このうち脂質が占める割合は、約15~20%。男女の差は若干ある。これはカラダを形作るためには、これだけの脂質が必要最低限という事になる。実際、必要脂肪酸を初めとする脂質が極端に不足すると、成長過程で何らかの障害が起きたり、神経細胞レベルの情報伝達に支障が出ることもある。 

人は、アブラなしでは決して生きて行くことは出来ない。下記に示した7つのアブラの役割がそれを証明している。ふだん、何かと厄介者扱されているアブラ、実は人の身体を形作る大切な物質だという事を覚えておく必要がある。1、細胞膜の材料になる。2、脳・神経系の機能を保つ。3、体温を維持し臓器を守る。4、肌・髪の健康を保つ。5、血液・ホルモンの材料になる。6、細胞を認識する標識になる。7、エネルギー源になる。 

最も重要なアブラの役割について。誰もがご存じの通り、それはエネルギーの備蓄タンクとしての役割。およそ7000万年という途方もない時間をかけた進化の過程で、ヒトは常に飢餓状態に晒されてきた。脂肪1gに蓄えられるエネルギーは9キロカロリーと大変効率がよい。使い切れない過剰な糖質、同じく利用しきれないタンパク質、ただちに中性脂肪という形に合成され、脂肪細胞に蓄えられて行く。こうしてエネルギーを効率的に蓄えられる人間が進化の勝者となったわけだ。 

いざというときのためにカラダに脂を備蓄するシステムは、本来、何ら不都合なことではない。むしろ、人類が獲得した得難い知恵なのである。この、7.エネルギー源の最後で述べられた、備蓄するシステムを私達現代人は、大いに活用してカラダを太らせているという事です。どうすれば脂をカラダに役立てるかは、本文を読んで頂くか、お好きなダイエット本を購入して研究して下さい。 

最後にちょっと哲学を。味覚研究の第一人者、京都大学の伏木亨教授のお話。おいしさとは4種類ある。1つ目は生理的なおいしさ。汗をかいた後のビールがうまかったり、ダイエット中なのに無性に甘いものが欲しくなるのはこれだ。2つ目は文化としてのおいしさ。「京都の卵焼きは出汁と塩で味付けします。砂糖はなし。他の地域の人達が食べるとカルチャーショックを受けます。ある集団でだけ共有されているおいしさがあるんです。」3つ目は情報がもたらすおいしさ。これは現代人には耳の痛い話だろう。町では行列店を見かけたり、グルメ情報を耳にすると、矢も盾もたまらなくなる。そんな経験は誰しもしているはず。それが本当に自分の好きなものかどうか不明でも、つい情報に踊らされ、口にしてしまう。そして、4つ目が危険な病みつきのおいしさ。高濃度油脂のもたらすヨロコビがこれだった。しかも、動物がこれにハマル理由は、カロリーに直結していたから。 

「ヒトを病みつきにするような、過度なおいしさだけを追求した食事は、味覚のポルノだと思います。劣情を刺激するおいしさとも云えますね」嗜好にはその人がたどってきた食体験が色濃く影を落とす。「食には品位と節度が必要ですし、それを身につけた人こそ洗練された大人なのではないでしょうか?」』(ここまで抜粋)

 「食には品位と節度が必要」ダイエット中の小生には大変耳が痛い話です。

 ご信心でも「節度」を守ることが大事と教わります。朝夕の御看経をさせて頂く際、このテレビ番組が終わったら、この本をあと少し読んだら、このゲームがきりが良くなったら、等と御看経をさせて頂く時間を先延ばしにしてしまう。お寺参詣も、何かにつけて用事を作り、お参詣時間を無くしてしまう。

お互いにこんな所はないでしょうか。

ダイエットに成功していない私が言うのも何ですが、やはり何事にも節度を守ることが自らの生活を豊かにする秘訣だと改めて感じた次第です。

Share on Facebook

香り

お線香良くも悪くもニオイというものは、人間の記憶に強く残る作用があるようです。ある人が、外国を旅した若い頃、鞄の中の香水瓶を割ってしまい、滞在中ずっと強烈な匂いに悩まされたそうですが、今でもその香水―シャネルの№5―を付けた人とすれ違うと、かつて旅した異国の景色や出来事、そのとき胸に抱いていた想いまで、あざやかに思い出す、と語っていました。

一方で、悪いニオイも同様です。これは私の体験ですが、リバイバルシネマの上映会での事でした。それは銀座の夜の街を舞台にした素敵な映画で、劇中、美貌のバーのママが、ひそかに思いを寄せるお客の男性とお茶を飲むシーンがありました。

珈琲を一口飲んで男性、「…ママ、いい匂いがするね」、そこでママは「あら…ありがと。これ、黒水仙っていうのよ。」その時でした。何というタイミングの良さ、いや悪さでしょう。私のすぐ前に座っていた男が粗相を仕出かしたのです。事もあろうに轟くばかりの大音響でした。びっくりするやらおかしいやら、もう映画どころではありませんでした。

今でもこの映画の事を思い出すと、ロマンティックな場面や、しゃれたセリフのやりとりなどは雲散霧消、その時の大音響とその後の匂いの記憶ばかりが浮かんでくるのですから、困ったものではありませんか。ことほどさように、香りや匂いというものは、私達の心に強い印象を刻みこむものです。

「心ときめきするもの。よき薫物たきてひとり臥したる」(枕草子)遠い昔より、我々の祖先はそうした香の作用や効果に敏感で、生活の随所に上手に取り入れてきたようです。 

最近はお線香も伽羅や白檀などのほかに、ミントやシトラス、蓮の花。夏場などは波をイメージしたものなどがあり、季節に合わせて楽しめます。値段も安いので、気に入ったものをいくつか買っておいてはその日の気分で選んでみるのも一興です。 

お茶をのみながら。音楽を聴きながら。本を読みながら。様々な場面で楽しむ事ができますが、私達信者にとってお線香は必須アイテムです。朝ならば頭の冴えるスッキリした香り、夜ならばおだやかな香りと、自分の好きな香りを御宝前に差し上げ、心を落ち着かせてお看経に努める。これなどは私達ならではの香りの楽しみ方といえましょう。

Share on Facebook

がんばれ!新住職

去る10月28日、群馬県・桐生市にある乗泉寺の末寺、常薫寺で住職継承式が執り行われ、私はそのお手伝いの御奉公でお参詣させて頂きました。この度、新たに住職になられたのは、服部歓要師。歓要師と私は共に佛立第22世講有日慶上人を師匠に頂く兄弟弟子です。

歓要師という人物は私から見て、物静かで口数少なく、一見何を考えているのか解らないところがありますが、実はその裏で非常にねばり強く、いろんな事をしっかり考えていて、何があっても信心がぶれない人です。

彼は私が得度させて頂いた半月後に教務見習いの為、一人で乗泉寺に入寺してきました。見習いの御奉公はそれまでの生活が180度変わり、ほとんど自由が無く、毎日ただひたすらに御宝前のお給仕と先輩教務さんへのお給仕の御奉公を繰り返す毎日です。私なんか私を含め三人で見習いの御奉公をさせて頂いたのですが、それでも見習いの御奉公に音を上げたほどです。

しかし、彼はたった一人で黙々と見習いの御奉公をし、見事所定の見習い御奉公を成就し教務になったです。また、彼とは共に立正大学の夜間学科に通った仲ですが、昼間、お寺や受持の御奉公をして夜、学校に通う訳ですが、それが結構大変。私は御奉公から帰ってきても、よく学校に行くのが嫌になってしまったのですが、彼はこれまた黙々と学校をさぼることなく通い続けたのです。(あの時はいろいろお世話になりました(^_^;))

また、ある時、私が朝寝坊をして御宝前のお給仕を怠ってしまった時があり、私は歓要師に軽い気持ちで「朝はごめんね」と言ったら、「改良してください!」とお折伏を頂いたこともありました。先輩に対して、なかなかお折伏は出来にくいものですが、歓要師は私の怠りをしっかりとお折伏してくれ、有り難い気持ちがこみ上げてきたのを今でも覚えています。

また少し時間ができた時に2人でゲームで遊んだりもしましたが、最初は私の方が上手かったのですが、それがいつの頃からか私がまったく歯が立たなくなってしまったのです。それも彼のねばり強い性格が表れた一面でもあったと思います。でも、負けて悔しかったなあ(笑)

その彼が住職の辞令を頂き、誓いの言葉を述べている姿を見て、なんとも感慨深いものがこみ上げてきました。これからはお寺の所属教務ではなく、住職です。その両肩にのしかかる責任とプレッシャーは計り知れないものがあると思います。

でもそれに負けずに、私に見せてくれた得意のねばり強さで頑張ってほしいです。でも、辛くなったらいつでも連絡下さい。頼りにならない兄弟子ではありますが、いつでも力になるつもりです。お互いに御奉公する場所も立場も変わってしまったけれど、共に御弘通の為に精一杯がんばりましょう。

 

Share on Facebook

没在於苦海

法華経の御文に『没在於苦海』(もつざいおくかい)とあります。これは、現実のこの世界には、苦が満ちていて限りがないことを海に喩えられ、諸々の衆生は苦しみの海の中に沈んでしまっていると仏様はお説き下されておられます。

また仏様は、この苦しみ海の中には、四苦八苦という苦しみが待ち受けているともお説きくだされおられます。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死を迎える時の苦しみ、愛する人との別れる苦しみ、憎しみ会う同士が居場所を同じくする苦しみ、情欲過多による苦しみ、欲望を満たし得ない苦しみ、とお示しで私達人間にはこのような苦しみ囲まれ生活しているのでございます。

確かにこの世の中で生活していく上で苦しく感じることの方が多いわけで、お金のこと、人間関係、そして健康上の問題と次々と苦しみが我が身に降りかかってくるものです。そして、その苦しみからはやく解放されたい、逃げ出したいと、どうしても考えてしまうのですが、苦しみは、一向になくならず、どんどんと増えていくばかりです。

では、その苦しみから解放される方法はないのかといいますと、そうではありません。仏様は、一切衆生はわが子であると仰せであり、先の四苦八苦をお説きになられたのも、このような苦しみを必ず受ける時がくるから、それに対する準備をしておきなさい、とお諭しくだされたもので、決して脅しなんかではありません。

そもそも仏教というのは、それらの苦しみを取り除かんが為に説かれたもので、それゆえに、苦しみに対する準備方法と、苦しみに直面した時に慌てふためかない為の対処方法というものをしっかりとお残しくだされているのでございます。

その方法というのが、今日末法においては、上行所伝の御題目の御信心というみ教えなのです。御題目をしっかりお唱えさせていただくことで、今受けている苦しみを乗り越えていこうとする勇気や、生きる希望というものが湧いてくるものです。御本尊にお任せして大きな声で口唱信行をさせて頂きましょう。明るい未来が必ず待っているものです。

 

Share on Facebook