日々の努力

浅田真央選手さて、去る2月10日に大阪で開催されたフィギュアスケート世界四大陸選手権では、日本人が表彰台を埋め尽くすという快挙をなしとげました。 

その中でも浅田真央選手は2年前に失敗をして以来、練習を重ね続けてきたトリプルアクセルに挑み、見事成功させて金メダルを獲得いたしました。 

しかし、浅田選手のこの2年間という歳月は、並大抵の練習ではなく、一から基礎練習を重ねる苦労の日々であったそうです。 

浅田選手は、トリプルアクセルを成功させた大会後のコメントで、「やっと出来た!」と膝を2回叩き、2年という長いスランプを乗りこえた歓喜の声をあげ、私達に感動を与えてくれました。  

浅田選手の優勝に限らず、全てに共通することですが、夢や希望を胸に抱き、困難な障害にはばまれても乗りこえようと努力を続けてこそ、何かを習得したとき初めて心からの喜びを手にすることが出来るものだと思います。 

もちろん努力をせずに何かを得られることもあり、その時はその時で嬉しいものですが、努力をしないで何となく得た喜びと、苦心の末にやっと覚えた喜びは、全く喜びの質が違い、努力をして覚えたものは、特別の有り難みがありますから、よく身につき、忘れようとしても忘れられないものです。 

ですから何事も骨を折ることがより多くの幸福を得る本と心得て、途中でめげたり、あきらめたりせず、苦労をいとわずに努めつらぬくことが大切なのだと感じます。 

しかし世間では「骨折り損のくたびれもうけ」という言葉もあるように、結果ばかりを求めようとする風潮がありますから、報われない努力は無駄だと考え、努める事を避けて、人の目を盗んで楽をしてたくさん儲けたいとか成功したいと考えがちなのです。 

仏様のみ教えには、善因善果「善い原因には善い結果」・悪因悪果「悪い行いには悪い報いがある」という因果の法則が説かれております。 

そして、今の時代の人々が最も善い原因を作るのには、口に南無妙法蓮華経と上行所伝の御題目をお唱えすることであり、その御題目を日々唱え重ねていくことで、人間の自力では叶わない未来成仏という、我々にとって最高の喜び得ることができるとお教え下されました。 

正直、忙しさや我々の欲心によって、日々の御題目口唱はとても骨が折れるものです。しかし、怠け心に打ち勝って、日々口唱行に努めていけば、努める本人にしか分からない、日々の生活の中に仏様の恵みを感じられるものです。そして、私達には想像ができない未来にも大きな幸せが待っているのです。 

誰もみていないから、それでよしと今の努力を怠っていいのか。努力は報われないと簡単に考えていいのか。 

確かに結果はすぐには目に見ないものですが、日々の努力は必ずよい結果をもたらすものだと浅田選手の喜びの姿に感じました。

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清きながれ

皆さんお馴染みの宗歌の歌詞の一節に、(蓮・隆・扇の相次ぐ教え)というフレーズがあります。これは仏様の本当の御心をくみ取られた日蓮聖人から、日隆聖人そして日扇聖人へと、清き流れが受け継がれてきたという一貫性を讃えているわけで、そのことを誇りをもって歌い上げているのです。

これは独自の視点から自画自賛をしているのとは違い、日蓮教学に精通された諸学者先生方の公平無私な立場から冷静に見ても高い評価を受けているのです。本日は門祖日隆聖人の550回御遠忌正当の日ですので、少しだけ門祖聖人の世間的な評価について紹介させていただきます。

東京の立正大学名誉教授である茂田井教亨氏の著作「日蓮教学の根本問題」には、著者の茂田井氏が20数年前に立正大学で、当時学長であった望月歓厚氏との会話が掲載されています。

「かつて故望月歓厚先生が私に語られたことがあった。『本当の宗学者は君、八品隆師だね。』(八品隆師とは、八品門流開基・門祖日隆聖人のこと)これは日蓮教学研究所に2人でいたときに、何気なく独り言をいうように語られた言葉であるが、700年の教学の変遷を熟知せられた望月先生が、その内心において数多の教学者中、慶林日隆に宗学の本道を発見されていた証左ではないかと思う。(中略)宗学の本質ということを考える時、先生には日隆の方向を認めざるを得ないものがあったのではなかろうかと思われる。」と述べられています。

また、著者はこの時のことを思い出し、門祖聖人の御聖教を改めて拝見して、次のことが分かったと述べています。(以下主意)

1、門祖聖人の教学の方法論に正統なものがあること。

2、門祖聖人が引用されているお祖師様の御遺文は、いずれも御真跡の存在する確実なものばかり。後世の他派・諸門流が好んで引用する偽書や、真偽が不明確な御遺文とは格段の距たりであること。

3、門祖の御聖教に引用の御遺文は、正統な御書のみで、そこからお祖師様の正しい宗教思想体系を打ち立てられている。従って、『宗祖の思想的根幹は、概ねあやまたずに捉えられている』つまり、高祖大士の御本意通りである。

4、門祖の教学は、その主張の拠り所を正統な御遺文に求めるところに、教学の清純性があり、『正直の宗学』といえる。

このように門祖聖人がお祖師様の正しい教えを再興正導された事実を評価し、教えを正しく受け継がれていることが学問的に明らかにされているのです。

開導聖人は、門祖聖人の教えを正しく引き継がれて、本門佛立講をご開講なされたのです。本日のような節目の日を迎え、私達は日々のご信心を大切にしていきましょう

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剃髪

スキンヘッド用バリカン皆様は僧侶(お坊さん)が髪を剃る理由ってご存じでしょうか?色々と調べてみましたが、様々な説があるようです。そんな私もつい数ヶ月前より、バリカンではなく、カミソリで頭を剃るようになりました。

何と今はスキンヘッド用のバリカンも発売されており、結局は今もバリカンです(笑)便利な世の中になりました。

キッカケは熱海の妙立寺でのこと、熱海にバリカンを忘れてしまった私は、急遽予定が入ったご回向の法要を伸び始めた頭で奉修させて頂く訳にも行かず、急いで近所の床屋さんへ足を運びました。

何と床屋さんには故障したバリカンしかなく、その場の勢いで「剃りましょうか?」という床屋さんの問いかけに頷くしかありませんでした。

ツルツルテカテカの頭で無事に(?)法要を奉修させて頂き、振り向くとお役中さん方が大変ニコニコされているんです。理由をお伺いしましたら、「お坊さんらしくて可愛い(笑)」との有り難い声援を沢山の方々にお声掛け頂いたのです。

「あ~なるほどな~!!お坊さんらしいか~!!そんなもんか~!!」と私自身、妙に納得してしまいまして、それからは生まれながらの剛毛に負けじと頭が傷だらけになりながらも、辛抱強く頭をそっています。お蔭様で最近は少し上手く剃れるようになりました。あっ、今はバリカンですが。。

古来より頭髪は男性の誇りでもあり、随分と大切にされて来ました。日本も武士のマゲ、マサイ戦士の髪編、蒙古の弁髪、中世西洋貴族のパーマなどが代表的なもののようです。清潔を第一としながらも、現在も世界各地でこうした伝統が残っています。

さて、私たち僧侶が髪を剃り落とす(剃髪)理由ですが、髪の毛は人間にとって「煩悩の象徴」といった意味があるようです。かってもかっても生えてくる、だからいつも頭をきれいに整えて、煩悩から離れるという理由だそうです。

また、剃髪には「生まれ変わり死に変わり」という意味もあり、髪をかるということは=首をかるということにつながり、煩悩にまみれた自分がそこで一旦死に、清浄でまっさらな自分として新たに生まれ変わる、という意味もあります。

世間でも大きな失敗をすると、新たな自分に生まれ変わる決意の表明として、丸坊主になってお詫びするということがあります。

何れにせよ剃髪の意味をしっかりと踏まえて、今後ともスキンヘッド用バリカンを使って参りたいと思います。

 

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姿勢

普段の恰好が地味なせいか、道行く人の華やかなスタイルに目を惹かれる。ここ渋谷はいわゆるお洒落の発信地。道行く人も好きな服に身を包み、それぞれが人生の主役となっている。だから通りすがりに視線を走らせ、珍しがっても驚いても、さして不作法には当たらないと思っている。 

先日も、東横のれん街の和菓子屋で順番を待っていた時、隣にいた年配の女性に目を奪われた。まず驚いたのは指である。透けるように白く、しなやかなその指。長い爪はそれぞれ赤、黒、金銀、と色ちがいのマニキュアに彩られ、蠱惑的(こわくてき)なまでの美しさである。

ただものではないと感じ、ついいつもの癖で、無遠慮に視線を走らせた。黒いスパンコールを散りばめたビーニー、毛皮をあしらった黒いロングコート、足元は同じく黒革のブーツ、上から下まで一分の隙もない。そのとき連れの女性との話し声が聞えた。艶のある独特の低い声には聞きおぼえがある。視線を感じたのか、チラリとこちらを見たその顔は、やはり大女優のAさんだった。

その後は買い物をすませ店を後にされたが、さっそうとした足取りは年齢を感じさせず、ドラマチックな余韻さえ残した。見事なものだと思った。Aさんの装いは個性的で、強い印象を残したけれど、何より彼女を魅力的に見せていたのは、その姿勢の美しさである。

背筋がまっすぐに伸び、一見無造作に見える立ち姿にも無意識の計算があるようだった。きっと長年の修練であろう。

私達佛立宗の教務(僧侶)は仏様がおられる御宝前に向き合うとき、袈裟・ころもを着て、合掌礼拝をし、姿勢を正し御題目をお唱えさせていただくなど、お敬いの姿を現すことが求められる。また、仏様はいつも見ておられるという冥の照覧をここでも欠かせないのは、やはり姿勢の美しさである。

お茶の世界でも「肩の力を抜いて、胸を張る。卑屈に見えないように。」「胸を反らしすぎず、あごは上げない。傲慢にならないように。」と偏ることなく程の良さをつかむことの大事と教わる。

それを自分の体に覚えさせる事が難しい。しかし、姿勢を整えることは、動きを整え、心を整える。そして日々の生活を整える。いつも背筋を伸ばし、地味な装いの中にも、強く確かなひとすじの芯を通したいと思う。

 

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新規オープン

ビンテージ下北沢といえばオシャレな雑貨屋さんやカフェ、洋服店など若者の多く集まる街と私はイメージしていますが、皆さんはどのように感じられているでしょうか?

そんな下北沢に先日、私の後輩が念願の古着屋をオープンしたということで、お邪魔してまいりました。出会った当初から彼は個性的で、いつか古着屋を出店することを目標にしていました。

古着屋といえば、良く行かれる方もいれば、全く行かれない方もおられると思います。私も頻繁に行く方ではなかったので、今回お祝いの缶コーヒーを持って伺いました。(笑)

お店に伺うと、実に様々なタイプの古着が陳列され、中には70年代以前のビンテージといわれる高価なものもあれば、お手頃価格のもの、古着をリメイクした一点物など、彼のこだわりを持った商品が並んでいました。

私は彼の夢を昔から聞いておりましたので、このように立派なお店がオープンされたことを大変嬉しく思いました。ですが話を聞くと、全てにおいてゼロからのスタートで、店をオープンするまでの苦労はとても大変であったということです。

店舗の確保から、内装のレイアウト、商品の買い付け、資金面でも融資を受けたので責任が重いなど、オープンする前から沢山の苦労もあったようです。

しかし、自分の夢であった古着屋をオープンできた喜びと、古着屋が多く建ちならぶ激戦区の下北沢で、あえて自分の店が多くの方に認めてもらえるように挑戦するという期待感で、逆にワクワク感でいっぱいであるという、前向きな強い意志が感じられました。

自分の人生を大きく左右する決断。オープンしただけで満足していたらそれで終わり。決してこのまま順調にいくとは彼も思っていないそうです。私もそれを聞いて、たしかに誰しも良い方向にのみ進んでいく、そんな甘い夢を思い描くけど、現実に店を経営していくということは、すごく難しいものだろうと思いました。

良い時もあれば悪い時も必ずあるはずでしょうから、一つ壁にぶつかってはその壁を乗り越えていくことで、お店もそしてなにより彼自身も、きっと大きく成長していけるんじゃないかと思います。

一つの夢を実現してからも、彼はさらにまた大きな目標を掲げています。私はそんな彼の今後の成功を応援しつつ、結局なにも購入しないまま手ぶらでお寺に戻ってきてしまいました…(^_^;)

 

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選択の人間学

選択の人間学選択の人間学という本で「アスリートが決断するとき」という特集が組まれ、松井秀喜さん大谷翔平さん武豊さん浅尾美和さん等の「選択」の記事が書かれてあり、その中の一人に三浦知良さん(カズ)の記事がありました。 

「冒険してこそ人生」と題して、15歳でブラジル行きを決断してからの移籍という大きな選択の時を語ってあります。「選択にはリスクがともなう」と言うことをついつも感じてきたといいます。

2012年フットサルの日本代表に招集された。結果としては成功であったが相当のリスクを感じていた。一時的とはいえサッカーから離れなければならない事、パフォーマンスを発揮できなければ、グループリーグ惨敗のときの戦犯はカズに集中するであろうこと。等

しかしそれらのリスクに対して恐れは無いといいます。 「リスクを恐れてやらない 等のが一番後悔する事だと思います。」ブラジルへ行くときも大勢の人から「絶対無理だ」と言われましたが、行かないことには始まらないとブラジル行きを決断します。

1993年のJリーグ開幕に際しても、地元静岡に戻るかトップチーム読売に残るか。また、セリエAジェノアへ移籍の時、クロアチア、京都・神戸・横浜への移籍の時にも、いつも挑戦・冒険出来る方を選んでいるといいます。「どちらかというと、こっちの方が大変かな、と思った道を選んだ方がうまくいっている。」とカズはいいます。(詳細は本誌を購入下さい。アマゾンでも買えます。)

メリットとリスク、何事を選択する時に於ても、常に付随する事で両者を天秤にかけた結果が決断の基準になるでしょう。メリットを優先するのかリスクを恐れるのか、年齢を重ねれば安定を望みリスクカットを重視する事もあるでしょう。

では、私共佛立菩薩として私共はどの様な人生を歩むべきか。リスクを恐れて挑戦をあきらめるのか。失敗したとしても後悔しない覚悟で勝負をかけるのか。生涯現役で信行御奉公に駆け抜ける佛立アスリートとして参考になる一冊かと思います。

カズ曰く「若手を頑張らせるために僕はやっているんじゃない。僕の背中を見せるためにやっているわけでもない。」回りからは選手以外のことも求められる立場でありますが、彼はこの思いを胸に常現役のプレイヤーであるのです。

私自身も、御奉公を教える役だとか立場がどうとか、それよりもいち佛立信者として御奉公したいから御信心をしているのだ。と生涯現役の第一線で御奉公を続けて行きたいです。

 

 

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見ザル・聞かザル・言わザル

おさるさん出る杭は打たれる。「頭角をあらわす者はとかく他から憎まれ、妨げられる。出過ぎたふるまいをする者は人から責められ制裁をうける。」という意味のことわざとあります。

人前によく出たり、出たがる目立ち屋さんは、日本ではあまりよい目で見られないとされています。欧米人から見るとなかなか理解が難しいそうです。

「日本に行けば、何も決まらない会議に出ることになるぞ。とにかく人間、辛抱だ。」自己主張、うぬぼれた態度はとにかく禁物で、日本の文化はコンセンサスの文化、お互いに追従し、調和することが一番というわけです。

だから「見ザル、聞かザル、言わザル」の三猿で、「ザル」とは「しない」の意味です。語呂合わせにぴったりで、見ない猿、聞かない猿、言わない猿、それぞれ両目、両耳、口を両手でふさいだ三匹の猿で、他人の欠点、あやまち、自分に都合の悪いことは、見ない、聞かない、言わないことを表しています。

この三猿は、伝教大師の作と俗に言われているらしいです。これは人の心を猿にたとえ、身のいましめを形にあらわして、世のわざわいが起こり身をほろぼすのは、目に見、耳に聞き、口に言うことをつつしむことを教えられたとするものです。

しかし、仏教の教えは正しく見て、正しく聞き、正しく見ることを教えているものですから、あくまでも俗に言われたと見るべきでしょう。

 

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30数年ぶり、北斗星で行く

平成24年ももうすぐ終わろうとする暮れの12月26日、午後11時ころ携帯が鳴った。北海道に居る姉からの電話である。千歳に居る義兄が亡くなった知らせであった。葬儀出席のため早速、JTBに家族4人の北海道行きの手配をしたものの暮れとあって、高額の上、中々思うようなコースがなかった。 

最終的には飛行機は諦めて、唯一空きがあったJR(二段B寝台個室)で行くことに決定した。それが1988年、青函トンネル開通と同時に誕生し爆発的人気が出た寝台特急「北斗星号」である。

思えば、30数年前、三段B寝台で非常に空間狭く身動くが難しい寝台だった記憶がある。とりあえず札幌~函館~青函連絡船~青森~上野と約15時間ほどかけて東京に来てた事を思い出す。帰りもまた同じコースである。飛行機でと思われるが、そのとき高所恐怖症であった。現在も同じであるが、仕方なく飛行機を利用する。

北斗星内心ワクワクしながら、上野発19時03分発に乗り込む。今でも人気があるようで、結構マニアの人たちが大勢写真撮影のため、ホームで待機していた。

車内は、昔と比べて内部(写真)が良くなっている。B寝台の作りは同じであるが、ベットが三段が二段になり、ドアがついて個室となる。プライバシーが守られている。

家族は初体験で、印象はまず狭い、ここで寝るのといいながらサッサと寝場所を確保し自分の時間を過ごす。夕食は駅弁であった。室内は暖房が効いているせいか、寝汗をかくぐらいである。揺れと電車音で目がさめてしまう。のどが渇く眠れなくなる。このくり返し、そうしている内に東北方面にすすむにつれ、何となく室温が下がってくるのが感じた。

突然、電気がつき「おはようございます」との声、朝6時である。早すぎる!もう少し静かにしてほしい!と心でつぶやくだけ。外はうす暗い。この日、東北から北海道は寒冷前線で大雪の影響で遅れが生じたと、朝車掌のアナウサーがあった。

7時ころ、青函トンネル(海底下100メートル・長さ55キロ)に入る、約40分後北海道に出る。そのころには明るく銀世界が目に入る。伊達駅、森駅、羊蹄山を眺めながら登別、室蘭、苫小牧駅を通過し、予定時刻より1時間20分遅れで11時30分ころ下車駅の南千歳に到着する(氷点下15度)。

皆慣れない寝台車での旅で足腰が痛かったようである。好い体験をしたと思う。冗談でまたの北海道旅行は寝台車がいいな、といったら返事が返ってこなかった…

駅の外は、やはり寒い、肌に刺す寒さ。一度経験してほしい。先ずはホテルに向かう中、今年は、例年にない極寒で雪が多いとのこと、札幌が集中して大雪に見舞われ除雪作業が追いつかないとタクシー運転手が言っていた。

ちなみに義兄の葬儀に参列した日はマイナス21度だった。自分が小学生だった頃の寒さを思い出す…。歩いて十分ぐらいの銭湯まで歩いたときには、濡れたタオルを振り回すとすぐに凍って剣となり、それで兄貴とチャンバラをしていたことも良い思い出だ。濡れた頭にはつららが出来るぐらいの寒さであった。札幌で1泊、やはり道路脇に2メートル以上の寄せ雪の塊があった。大雪の爪跡である。

帰りは飛行機で、30日悪天候の中、一時間遅れで千歳空港を飛び立ち、強い揺れの中無事羽田に到着し帰宅した。新幹線はまだ先のこと故、寝台特急「カシオペア」で北海道へ行きたいと思っている。

 

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お墓参り

八王子霊園年が明け早くも一ヶ月が過ぎましたが、皆さんはお墓参りには行かれましたでしょうか。八王子別院の墓参者もパラパラといった感じで、年々墓参者が減っているようです。

さて、仏さまの教えの根本は「恩」ということから始まります。私たちがこの世に生まれこうして生きていられるのも、両親や祖父母、先祖のお陰、また、自分を支えてくれる身近な人達や知らず知らずのうちに支えてくれる多くの人達。様々な人達の支えがあって生かされているのです。

およそ世の中で、人間と動物の区別をする時、その一つに「恩を知るか知らないか」にあると言われています。人間に生まれた以上、この恩をしっかり感じながら生きることが大切なのではないでしょうか。それを姿形に表す一つがお墓参りです。

少し前に、お墓参りをするネコがいるとニュースになりました。イタリア北東部の小さな町モンタニャーナで一昨年死去した飼い主のお墓を毎日のように参って供え物までするネコがいるというのです。このネコは飼い主が亡くなってから一年以上もの間ほぼ欠かさずお墓に小枝や木の葉、プラスチック製のコップなど置いていくそうです。葬儀で家から墓地まで付き添って以降、墓参りをするようになったといいます。

驚きです。負けてはいられません。私たちもしっかりとお墓参りをさせていただきましょう。前に、「千の風になって」という歌が流行りましたが、「私のお墓の前で・・・泣いてもいいじゃないですか。そこに私は・・しっかりといますから」と勝手に置き換えてみましたが、ご先祖の恩を感じとる場所、手を合わせて祈りを捧げる場所も、今のこの時を生きるものにとって、やはり必要なんだと感じるのです。

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挨拶

挨拶私が現在住んでいる集合住宅の住人の方達には、とても良い習慣があります。それは「挨拶」。 今の住居に引っ越して約一年になりますが、引っ越して一番最初に思ったのが、上はお年寄りから下は幼稚園児まで住人の方達みんなが、すれ違いざまに「こんにちは~」とか「こんばんは~」と必ず声をかけてきてくれることです。

すれ違って素通りしていく人は一人もいません。みんな知らない人達なのに、すれ違う人すれ違う人がことごとく挨拶してくるので、正直ビックリしました。

情けない話、自分は最初、見知らぬ人達がすれ違うたびに挨拶してくることに戸惑い、会釈程度でした。しかし今では自分から率先して挨拶するようにしています。

最近、私がお坊さんと認識されたらしく、先日数人の小学生の子供達から、「お坊さ~ん、こんにちは~。」と挨拶されました。別に挨拶しなければいけないという規定がある訳ではありませんが、住人の中の誰かが率先して、挨拶を交わすようにしたのでしょう。それが自然に良い習慣となって、だんだんと浸透していったんだと思います。

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉は現代ではあまり通用しなくなり、ご近所付き合いが難しく、隣にどんな人が住んでいるかもわからない、そんなご近所との希薄な世の中になってしまっている現在、小さな範囲ではありますが、挨拶の声が絶えない私の住んでいる所には何かとても大きな安心感を覚えます。

私達、本門佛立宗にはとても素敵で最高の挨拶の言葉「ありがとうございます」があります。我等が佛立宗をお開きになられた開導日扇聖人はこの挨拶の重要性をとてもお感じになっておられたのでしょう。日本語で一番素敵な言葉「ありがとうございます」を佛立宗の挨拶の言葉にお選びになったのであります。

しかし最近、お寺の中で「挨拶の声が聞こえない」「挨拶をする人が減っている」という残念な声をよく耳にします。せっかく「ありがとうございます」という最高の言葉で挨拶をするとても良い習慣が佛立宗にはあるのです。たとえ挨拶をして無視をされてもいいのです。その時にかけた「ありがとうございます」と言う言葉は必ずその人に良い影響を与えます。

以前のマンションでの私がそうであったように必ずその人も挨拶をするようになるはずです。いつもお寺の中が、仏様の最高のお言葉である御題目をお唱えする声と日本語で一番素敵な言葉「ありがとうございます」という挨拶の声が絶えず、どのような人がお寺に来ても大きな安心感を感じてもらえる、素敵な雰囲気になることでしょう。

そんな温かい雰囲気を作りだせるよう、今まで以上に率先して挨拶をするよう心掛けたいと思います。

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