一番愛しいもの

心の絆仏教説話にこんなお話があります。

コーサラ国のパセナーディ王はマッカリーという美し妃をめとって幸せな毎日を送っていた。

ある日、王妃に「この広い世の中で、あなたの一番愛しい者は誰であるか」と、なかば自分であろうことを期待してたずねた。

すると、「王よ、私にはこの世に自分より愛しい者はありません」と答えたのでびっくりしてしまった。

そこで王は釈尊に教えを求めたところ、「人のおもいは、いずこへもいける。されど、いずこへいっても人はおのれより愛しいものを見つけることは出来ない。それと同じに他の人びとにあっても、自己はこの上なく愛しいものである。おのれの愛しさを知るものは、他のものを害してはならない。」

と誡められて、よくよく考えれば王自身も、自分が一番愛しいことに気付いたというお話しです。

お釈迦様は誰でも自分が愛しいという人間の本音を見抜かれた上で、人間は共に相手の気持ちを傷つけず、ゆずり合い、助け合っていく必要性を説かれたのです。 

ある心理学者は「現代人はひとから愛されることを知っていても、ひとを愛することを知らない」といっています。 

人からの好意や親切は当然だと受け止めるのに、人を愛し奉仕することなど馬鹿馬鹿しいと、自己を中心に世の中が動いていると思えば、やがて独りぽっちとなって命を虚しくするばかりです。 

お互い私たちは、日常の御奉公を通じて「お互い様」という温かい気持ちを育み、御看経を通じて心の絆を深めましょう。人のために積極的な行動をすることで、人との交わりの尊さを知ることができます。信行御奉公の功徳で心の豊かさを広げたいものです。

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判断基準

私達は毎日の生活の中で、仕事にしても物を買う時にしても、或いは人から何か頼まれ事があった場合にしても、どうしたら良いか、どちらを選んだ方が良いかと迷い悩む時があります。 

そんな時、私達は三つのことを基準にして選んだり判断を致します。まず一つ目が「損得勘定」です。それを選ぶこと、判断することが自分にとって損するか得するかを基準として、普通は「得」と思えるほうを取るものです。 

次に「苦・楽」ということで、それが自分にとって苦しいことか楽しいことなのかという判断基準でして、私たちは当然ながら楽な方を選びます。 

最後三つ目は、人間は感情の動物と言うように「好き・嫌い」で物事を選びます。そして大概は「好き」のほうを判断基準に置くものです。 

これは殆どの場合に共通しているようで、私達人間はこれら三つを判断基準に置いて、それが自分にとって「幸せにつながる」と思い、得な方を選び、楽な方を選び、好きな方を選んでいるようです。 

ところが、自分の思い描いた通りに良くなっていけば良いのですが、現実には幸せにならず、良くはなっていかない場合も多くあり、そんな時、私達は「どうして?何故?」と悩み苦しむものです。 

仏様はその原因は「自分にあり」と仰せです。なぜ自分なのかというと、結果に至る道のりを歩いてきたのは自分だからです。では自分の一体何が原因かというと、最初の損得でいえば得を選び、苦楽でいえば楽を選び、好き嫌いでいえば好きを選んだことになります。そして得だと思ったことが損となり、楽だと思ったことが苦となり、好きと思ったことが嫌いな結果を招いてしまったのです。 

その根本的な原因というのが、私たちの心の作用(はたらき)にあり、この働きを仏様は「三毒」と仰せで、三毒という心は一言で申しますと、自分本位な心のことです。飽くまでも自分が傷つかないように、今よりも損をしないですむようにという欲望のことです。 

私たちの生活する社会は、自分一人だけでは決して生きて行くことは出来ません。相手が存在してはじめて成り立つものです。それなのに、自分だけ得をしよう楽をしようと思ったら、必ず誰かが損をする、苦労をすることになってしまうのです。 

諺に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とありますが、私たちは自分が良くなることばかりを考えずに、先ずは自分が楽なことよりは骨が折れるような苦労をすること、自分が得することよりはちょっと大変でも相手を喜ばせることを考え、選択し実行を積み重ねていくことが大切です。 

こうした三毒とは正反対の思い方や行動が、巡り巡って自分にとって本当の幸せとなってかえってくると仏様は仰せです。お互いに、自分の欲を満たすことばかりを考えずに、少しでも人の為になること、社会の為になれるような行動をしたいですね。

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初お講

昨年、結婚をさせていただき、その結婚の御礼として先日、我が家で初めてお講をお受けさせていただきました。

お講をお受けするにあたり、お参詣者が20名ほどになるということで、テーブル、ソファーにカーペットなどの家具を動かしました。また、部屋の掃除、お盛り物やお講師用のテーブルクロスなどの買い出し、ご供養の場所を決めるなど、一席のお講を受けさせていただくための準備を初めて経験させていただきました。

普段、私はお席に伺い御看経を上げ御法門を拝読させて頂くという、お講を勤める側という面しか経験していませんでした。

お講席をお受けになられる席主の方は、こんなにも志しを込めて御奉公されていることを考えると、勤めさせて頂くこちら側も、一席一席のお講席を真剣に受け止め、もっと丁寧に言上や御法門を拝読させていただかなければと考えさせられました。今まで、そのようなことを感じないでお講を勤めていた自分を恥ずかしく思うとともに、より精進していかなくてはと感じました。

ともあれ、無事にお講を終えることができ、別席のご供養場へ移動しようと思い、お講師へ「別席でご供養の準備をしてますので・・・」とお伝えすると、ここでトラブル発生。お講師から「聞いてないよ。」との一言。やってしまった!次のお席があるかもしれないというのに別席のことをお伝えしておくのを忘れていた!!

冷や汗をタラタラとかきながら深々とお詫びして、お時間のご都合を聞きますと運良く「今日は大丈夫だよ」とお慈悲のお言葉。ひと安心しましたが、もし、これで次のお講席があるからと断られてしまったとすると、取り返しがつかない大失敗になるところでした。

こうして、なんとか無事に我が家での初お講を奉修させて頂くことができ、ひと安心しながら後片付けをしていますと、なんと押し入れの奥の方から今までずっと探し続けてきた愛用のスーツのズボンが発見され、思わず「ウォー!!」と歓喜の声を上げてしまいました。これもお講の功徳なのかと、有り難く感じました(^_^)v

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古都

看板この度、住み慣れた東京を離れ、二年間、京都の佛立教育専門学校に通わせていただく事になりました。

外国からはるばる観光客が訪れるこの街に暮らせる。そして何より、全国のご信者が恋い慕う本山の御宝前で御奉公ができる。この得難い御縁を精一杯活かし、少しでも多くのものを吸収してこようと思います。

京都と言えば、清水の舞台、金閣寺、また豆腐や鱧やおたべに舞妓さん…みなさんが思い浮かべるイメージはこんなところでしょうか。でも、実はこの街の面白さは身近な所に隠れています。

例えば、吉野家やモスバーガーの看板の色が、東京と違い、白色ベースでデザインされているのです。これは派手な色を避け、美観を保つための配慮だそうで、さすが古都ならではの心配りと言えましょう。

また近所の町会の名前も、北野白梅町、紅梅町、毘沙門町、元観音町、上七軒、といった具合に、寺社町や花柳界のおもかげを今に伝える風情あるもので、やはり景観条例のためか、高い建物が少ないのが特徴です。

ちらほらと古い木造家屋が立ち並び、ちょうど小津安二郎監督の世界を彷彿とさせる、趣きのある街並みです。夕暮れ時には、下校途中の小学生たちが、笑顔であいさつを返してくれます。二、三の悪童たちは、「あ、お地蔵さん(なぜかこういわれる)が来た」といい、そしてなぜか唐突に「ジャン・ケン・ポン」

歯の抜けた口を大きくあけて笑い、新しい土地で暮らす不安な心を、優しく和ませてくれます。やはり笑顔とあいさつは、どこでも通用するパスポートのようです。 

さて今月末には、ここ本山で門祖五五〇回記念大法要が奉修されます。その日が青空に恵まれ、お参詣者たちの笑顔と、喜びの口唱に包まれる事を心待ちにしております。

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不浄の料理

こんな仏教説話があります。昔、広大な庭を持った地主がいた。地主は庭の手入れのために大勢の職人を雇い入れて、朝早くから夜遅くまで働きどおしに草木を刈り取ってもらった。 

地主は職人たちに一日の労をねぎらうために、料理人に最高級の肉と野菜をつかったスープを作らせた。ちょうど料理が出来上がった時、一羽のトビが食卓の上に舞い降りてきてフンのついた爪で料理をかき回した。 

料理人は慌ててトビを追い払ったが時すでに遅く、料理の中にフンのかたまりが入ってしまった。料理人はすぐにフンを取り出そうとしたが、スープにとけ込んでしまった。料理人は、しばらく料理をながめ、もう一度、夕食までにこの手の込んだ料理はつくれない。スープを口に運び、味には変わりがないことを確認し、このまま食べていただくしかないと食卓にスープを出した。 

職人たちは、このスープを口々にほめ喜んで食べました。そして、料理人にも「遠慮しないで私達と一緒に食べましょう」と勧め、料理人は職人が親切に盛ってくれたフン混じりのスープを受けとると喜んで食べた。というお話です。 

空腹の職人がスープを美味しく食べるくだりは、快楽をもとめ欲望を満たすことを喜びとし、今の生活を送っている我々人間のことを言っており、料理人が不浄の料理と知りながら口にしたくだりは、目先の喜びは苦しみの原因であることを知りながらも、あえて人と同じ喜びを持ちながら、人々を教え導く菩薩のことさしているとのこと。 

開導聖人は法華経の行者について
「かもめが水の上に浮かんでいるのをみると、いかにものどかで楽しそうである。しかしその足は休み間なく水をかいている。法華経の信者も同じように、どうにかして迷っている人達を正しい教えで救いたいものだと、皆と同じ生活を送りながら、心はいつも休みなく他の幸せを願っているものだ。」と仰せです。 

法華経では「如蓮華在水」と説かれています。レンゲは泥沼の中からきれいな花を咲かせるように、あなた達は自分の心身が不浄であると知っていても、周りの人達へ良い影響を及ぼせるように勤めなさいと、仏様はお諭しです。 

お互いも、世の中を少しでも浄化をしていきたいという心をおこして、周りに明るさとやさしさ、笑顔と元気。そして御信心の大切さ、有り難さを伝えていきたいものです。そうしたところに、本当の心の安穏、真の幸せを感じることができるものなのでしょう。

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仲よく

仏教説話にこんな話があります。 

昔、長災王という王様が、隣国のブラフマダッタ王に国を奪われ、処刑場で命を落そうという時、幸い拿捕(だほ)を逃れた王子をみつけた。王は独り言のように「長く見てはならない。短く急いではならない。恨みは恨みなきによってのみ静まる」とつぶやいた。 

その後、王子はいちずに復讐の道をたどり、王家にやとわれる機会を得、王に接近して信任を得るに至った。 

ある日、王が猟に出かけたおり、青年はあだうちの機会とばかり、軍勢から王を引き離した。疲れた王が青年のひざを枕にまどろむと、王子は今こそ時きたりと刀を抜いたが、その刹那に父の臨終の言葉が思い出され、ちからなく刀をおとした。 

その気配に目を覚ました王は、長災王の臨終の言葉を聞いて大いに感動し、互いの罪をわびて許し合い、王子にはもとの国を返すことになり、その後長く両国は親睦を深めた。 

ここに「長く見てはならない」というのは恨みを長く続かせるなということである。「短く急いではならない」とは友情を破るのに急ぐなということである。 

恨みはもとより恨みによって静まるモノでなく。恨みを忘れることによってのみ静まる。和合の教団においては始終この物語の精神を味わうことが必要である。と仏教説話にあります。 

また集団が和合する方法として六つの原則があると仏様はお説き下されておられます。

「第一に、慈悲のことばを語り。第二に、慈悲の行いをなし。第三に、慈悲の意を守り。第四に、得たものは互いに分かち合い。第五に、同じ清らかな戒を保ち。第六に、互いに正しい見方を持つ。このうち正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである」と仰せで、正しい見方とは、即ち《信心第一》の心を強く持つということです。 

四月は、新学期が始まったり、人事異動があったり、クラス替えがあったりと、新しい出会いがスタートする季節です。お互いに新しい環境になっても、ご宝前を中心にみ教えを守り、仲間との和合を願うとともに、家庭内でも和合をたもてるよう励んでまいりましょう。

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よい影響を

私が現在御奉公させて頂いている教区に、93歳のご信者Wさんがおられます。その方は、甲・乙のお講願主であり、とてもご信心に熱心な方でありますが、高齢になってきたことで、思うように歩くことができず、また旦那さんのお世話等もあり、ご自宅にいる機会が多く、お寺やお講参詣、またお講席も昔のようには受けられない状態にありました。

しかし、今回、所属の部は違いますが、初めて御講席をお受けになれたAさんのお宅が、偶然にも真向かいにあるということで、お参詣に来てくだされたのです。 

部の方も、お参詣者が増えることを喜ばれ、また、今回初めてお席を受けたAさんも、お席を設けさせていただくことで、Wさんのようになかなかお寺にお参りすることが難しい方のお役に立てたことを喜ばれておりました。

私は改めてお講は、お寺の派出所、そして部内のご信者さんが信心を高めあう場所であり大きな功徳になることを、Wさんのお参詣の姿と、Aさん、皆さんの笑顔を見て感じました。

お講の後、私は真向かいにあるWさんのお宅にお助行をさせていただきました。ここでも偶然、いや!?お講の功徳なのでしょうか、その日はWさんのお父様とご兄弟のご命日であり、Wさんと一緒にお看経をさせていただきました。 

また、体調がすぐれないと言われていたご主人にもお会いすることもでき、短い時間ではありましたが、ご信心のお話を聞かせていただき、「また気軽に来て下さい」、さらには「これからも信心改良・増進させて頂きます。」とご夫婦から有り難いお言葉もいただきました。 

私は、そのお言葉を聞いて、これからも沢山の信心の喜びを感得していただきたいと思い、生意気ですが、今度は教区の皆さんにも協力してもらい、少し遠のいていた、甲御講のお席をお受けすることをお勧めさせていただき、「また良いお話を聞きにお助行に伺います」といって失礼させて頂きました。 

年齢や環境、体調の変化から、ご信心が思うようにできない方も多いと思います。 

ですが今回、お一人方がお講席をはじめてお受けされたことで、ご信心が思うようにできなかった方のご信心も進む機会に恵まれたように、やはりお互いご信者は御法様との深い絆で結ばれているのです。一人の信心が進むことで、御法様のお導きで周りのご信者の改良にもつながっていくのです。

私も、少しばかりのお手伝いですが、させていただけたことが何よりも嬉しく、またご信者さんの喜びの姿をみて、自分自身の信心改良にもなりました。 

私はまだまだ若僧の教務であり、なかなかご信心を上手く伝えられず、学ばなくていけないことは沢山ありますが、今回の体験から、まずは自分自身の信心改良を心がけ、一人一人の出会いを大切にして、御題目のご信心の喜びを他に伝えていきたいと思います。

なお、明日明後日と乗泉寺では、門祖会が奉修されます。お互いにお参詣に励ませていただき、他によい影響を及ぼしてまいりましょう。

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楽しく御奉公を

三月に京都の佛立教育専門学校を卒業し、四月から再び乗泉寺でご奉公をさせていただいております。

京都での二年間はあっという間で、多くのことを学ばせていただくことができました。先月の卒業式の謝恩会で、ある先生が「自坊に帰っても楽しくご奉公をしてください。」と、祝辞をくださいました。

その先生は常日頃から「楽しくご奉公を」ということを私たち学生に教えてくださっていました。京都の二年間を振り返ってみると、どんな時でもみんなで楽しくご奉公をさせていただけたと感じます。それはやはり、異体同心でご奉公をさせていただくことができたからだと思います。 

みんなで同じご奉公をさせていただき、同じ苦労、喜びを分かち合え、助け合い、支え合ったからこそ、異体同心となって楽しくご奉公をさせていただくことができたのだと思います。 

年齢や出身、考え方や性格もそれぞれ違う中で、異体同心でご奉公をさせていただくのは非常に難しいことだと思います。信心が強い人もいれば、弱い人もいるわけで、ご信心に対する意欲も千差万別だと思います。 

楽しくご奉公をさせていただくには、お互いに助け合うことが大切で、苦手なところは補い合い、支え合っていかなければなりません。 

例えば、役中の方だけにご奉公を任せていてはいけませんし、役中の方も自分でやった方が早い、簡単だからといって自分一人でご奉公をしていては、連合や教区、部はいつまでたっても異体同心でご奉公はできません。 

皆で同じようにご奉公をさせていただくから、苦楽を分かち合え、御法さまから御力をいただけ、異体同心となっていけるのです。お互いにご奉公を楽しくさせていただくためにも、助け合い、支え合ってご奉公をさせていただきましょう。

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いよいよ渋谷で

いよいよ四月一日より渋谷での御奉公が始まりました。

二年間京都の学校におりましたので、最初はそわそわして、また御奉公で忘れている事や、変わっていることなどあり少々戸惑いましたが、一週間経つと案外勘が戻ってくるもので、今では乗泉寺にいるのが落ち着くようになりました。

何より一番嬉しいことは、ご信者の方々が「御講師、お帰りなさい」と言ってくださることです。二年前に京都行くまでは、今よりさらに未熟で満足な御奉公ができたかわからないような私でした。

それでも御信者の方々は覚えてくださって、「京都はどうでしたか?」「いつから御奉公復帰なさるんですか?」と声を掛けてくださいます。こういった言葉一つ一つで、「ああ、乗泉寺戻ってきたんだなぁ、がんばろう」という嬉しさとやる気が起こります。

そうした気持ちでおりますと、乗泉寺で頼まれ事をされるのがむしろありがたい気持ちになります。頼まれごとをされる、ということは頼りにされているということ・・・というのは自惚れがあるかもしれませんが、それでも必要とされるというのは京都から戻った身としては居場所があるようで嬉しいものです。当然そういった気持ちで御奉公しておりますと、自然と笑顔にもなりますし、楽しく御奉公という素晴らしい気持ちでいられます。

とはいえまだまだ戻りたての身、今後の改良もしっかりさせていただき、乗泉寺の御奉公に少しでも役に立てる教務になれるよう精進していきたいと思います。

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さとり世代

先日テレビを見ていると「さとり世代」というニュースが取り上げられていました。

仏教では悟りの境地を最終目標としますので、「さとり世代」という言葉を耳にしますといったいどういうことだと気になりインターネット等で少し調べてみると、さとり世代とは、 ゆとり世代の次世代の若年層を指す言葉らしく、その特徴として「車に乗らない。ブランド服に興味がない。スポーツをしない。酒を飲まない。旅行をしない。恋愛に淡泊。貯金が増えていく。過程よりも結果を重視する。」といった傾向があり、こういった欲のない若者がさとりを開いた仙人を思わせることから「さとり世代」と呼ばれているそうなんです。

へー、若いのに欲がなくてすごいなー!自分も少し見習わなければと思う反面、でも何か変だよな-。何かわからないけど、何か違う気がする。若者らしくないというのか、悪い言い方をすれば何事に対しても無気力で、グータラしてるだけともいえるような感じがして、とにかく何か違うような気がするのです。

さとり世代の人たちは、結果が伴わなかったら過程をいくら頑張っても評価されないと考えている方が多いようですが、結果はどうであれ、何か目標に向かって努力すると、違う形で良い結果を招くこともあると思います。

例えば、プロ野球選手を夢見て、野球部に入部した少年がいたとしましょう。少年は、ひたすら過酷なトレーニングを耐え忍びました。しかし努力の甲斐無くプロ野球選手にはなれませんでした。

さとり世代の人たちはこの事実をどのように受け止めるでしょう?やはりどんなに努力をしても社会の中で報われなければ全て無駄なことだと、努力の人を簡単にあざ笑うのでしょうか?

しかし、少年は野球部に入部したことで、たくましい肉体と精神を養うことができ、社会に出ても野球部で培った上下関係の厳しさや、チームワークの大事さを知って、上司には信頼され部下には慕われるような人柄が自然と身に付き、後々になってから野球部での経験がいきてくるということもありえます。そう考えると、たとえ少年がプロ野球選手になれなかったとしても、すべてが無駄な努力であったとは単純にいえないはずです。

人生の大きな壁にぶつかったときに、その障壁を乗りこえるような努力をしてこそ、人間としての底力がついてくるのだと思います。たとえ無謀に思えるようなことでも、努力によって、不可能を可能にかえてきたのが、人類の歴史といえます。それなのに、何事をするにも最初から無理だと決めつけていたら、自分という器を小さくまとめてしまうことにもなりかねないわけです。

無理かもしれないけど努力をする、そのチャレンジ精神に何か重要な意味があるのだと思います。自分は社会の恩恵を受けていながら、社会に対して何も還元する気がなければ、欲がないというよりも、ただ自分勝手な生き方をしているだけとも言えないでしょうか?

仏様は唯一さとりを開かれたお方ですが、現代のさとり世代と言われる人たちの浮世離れした「さとり」ではなく、自分だけの幸せを求めずに他の人へ幸せを施し与えるという、菩薩行の中で「さとり」を開かれたのです。つまり、人の幸せを願って南無妙法蓮華経とお唱えし、尚かつ、人にも唱えせしめる努力工夫をしている時こそ、菩薩行という「さとり」そのものであると、私達に教えて下さったのです。

さとり世代の人たちに、是非とも御題目をお唱えする喜びを、さとってほしいと思いました。

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無財の七施

「布施」と耳に致しますと僧侶に金品をご供養する事を思い浮かべる方が多いと思いますが、それだけが「布施」ではありません。仏法の為、あるいは他の人の為に自分の所有している財、あるいは身体、時間、更には智慧、能力等を活用し、喜捨する事を総じて布施行と言います。

釈尊はご自身が悟られた縁起の理法の真理に基づいて、布施行、つまり「施しをせよ」という事を強調なさったのです。

「周りをよくしなければ、自分もよくならぬ」、「他の人の幸せを願わねば、自身も幸せになれぬ」故に「他に様々な施しをする事は、結局我身に施すことになるのだ」と釈尊は説いておられるのです。

「情は人の為ならず」という諺がありますが、この意味を近頃は「他人に情をかけるのは甘えを起こさせることになり、かえってその人のためにならない」とまさに現代の世相を反映したような名(迷)訳をしているようです。 『広辞苑』の説明を引用し、本来の意味にしますと「人に情けをかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」となります。

さて、タイトルの【無財の七施】とは、慈眼施(ジゲンセ) 和顔施(ワガンセ) 愛語施(アイゴセ) 捨身施(シャシンセ) 心慮施(シンリョセ) 床座施(ショウザセ) 房舎施(ボウシャセ)以上、七種の「施し」のことですが、この七施はいつでも、どこでも、だれにでもできる布施行なのです。

一番目は「慈眼施」人をいつくしみ深い眼差しで見ることです。〝眼は口ほどにものをいう〟等と言いますが、私共の心の動きは眼に敏感にあらわれるものです。とくに怒りの感情をいだいた時がそうです。だから〝目〟に〝真〟実があらわれると書いて〝瞑〟(いかり)と読むそうで、そういう意味で、心の持ち方から変えていかないと慈眼施は難しいものだと言えます。

二番目は「和顔施」これは笑顔のお布施です。日蓮聖人は「他の人になにもしてあげられない人は、せめて日に三度は笑顔をお布施しなさい」と和顔施をすすめておられます。

三番目は「愛語施」これは誠実な思いやりのある言葉づかいに心がけることです。どうも私共は、人の欠点をあげつらったり、けなしたりするときにはずいぶんと精力的、積極的に口から言葉を出せるのに、人に感謝の意を表わしたり、誉めたりしようとする時には、とたんに口が重くなるという傾向があるようです。

四番目は「捨身施」自分の身体、労力を他の人のために役立てることです。他人に迷惑をかけない、あるいは不愉快な気持を懐かせない振舞いが出来れば、これも「施し」と言えます。

五番目は「心慮施」です。心慮施とは、人の悩みや苦しみを自分のこととして受けとめ、親身になって相談にのってあげること、あるいは人と接する時こまやかな気くばりを忘れないことです。

六番目は「床座施」ゆずり合いの心をもって人に接することです。電車やバスの中で身体の不自由な人に席を譲ることです。権力を振りかざさない。

七番目は「房舎施」人の心に安らぎ、ゆとりを与えるような立場を提供すること、あるいは雰囲気をつくること。客を招いたとき、さりげなく花を飾っておく、庭石に水をまいておく、一宿一飯の施しを与えるといった心づかいが房舎施です。 

以上、七つの布施行を紹介致しましたが、この七つは誰でも志を持てば、いますぐにでも実行出来る事ですが、ここで一つ、心掛けるべきものがあります。

それは布施供養とは、する側が「有難い」と感謝すべきもので、自身に功徳を積ませて頂く為に「させていただく」ものだということです。

たとえば席を譲った場合、「かわいそうだから席を譲ってあげた」という気持ちではなく、他の人に席をゆずる事を功徳行として受けとめて、「坐って頂いた」という思い持つことが大事なのです。 

御教歌  よの人に 施すのみの 功徳ぞと おもえばわれに かえるなりけり

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