着眼点

私が社会人だった頃、ある外国人のお客さんが「私は何十年と日本に来て仕事をしていますが、電車に乗って乗客を見ていると日本の経済が良くなるか悪くなるかがわかるんです。」と言うのです。

山手線どうやってわかるんですかと聞くと「景気が良くなっていくときは、新聞や本を読んでいる人が多いんです。逆に経済が低迷しているときは漫画を読んでいる人が多いんですよ。」
と教えてくれました。

なるほどと感心した私は、それから毎日通勤の度に、乗客の方が何を読まれているのか
人間観察をするようになり、苦痛だった通勤電車が少し楽しくなりました。

あれから数年たち、教務になって電車に乗る機会は以前と比べ減りましたが、今でも電車に乗ると、つい人間観察をしてしまいます。

スマートフォン
今は携帯電話をいじっている人がほとんどで、これは景気がどうなっていくんだろうと、ついつい考えてしまいます。

電車に乗っても経済の事を考え、人と違うものの見方をされているその方のことを今でも時々思い出します。

人間観察をする中で、ご信心につながっていくこともあると思い、私も見習わなければとその度に反省をしています。

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未来の世界はある?

古来より、私たちのこの国では、悪いことばかりしていると地獄に堕ちるぞ、良いことをしておかないと天国や極楽には行けないぞと、仏教の教えをもととしながら言いならわされてきました。

心が純朴であった昔の人々は、こうした言葉をわが身の上のことと感じて、人目のないときにも悪事をつつしみ、ひとつ良いことでもしておこうかと、善行にいそしんできたことでしょう。下は地獄界から上は仏界にいたるまで、仏教の教える十の世界のあり方が、人々の日常生活の指針とされてきたのであります。

一方、現代はどうかといえば、情報社会で色んな知識が繁多になっていますから、空想的でボヤッとした知識を迷信である、無価値であると単純に位置づけて、今のこの人生が終わった後にも次の世界があるということが、漠然として考えにくくなっているようです。

そして、むしろ私たちの魂というものは、今生一回に始まり今生一回に終わるだけのものだと高をくくって考えて、人間としてのこの世界の他にも地獄界や餓鬼界、天界や仏界といったどんな世界があったとしても、それは自分には何の関係もないことだと思ってしまいがちです。

そのように今生だけを考えて、未来の世界を考えないとしたら、一体この世はどうなってしまうでしょうか?嘘をついても人にばれなければ良い。余所様のものを盗んでも見つからなければ問題ない。人を殺したりどんなに悪いことをしても、その悪事を墓場まで持って行ったら、そこで全てが精算できるとしたら、きっとこの世の中には悪事ばかりが横行するに決まっていますし、ずる賢く立ち回る人間ほど、人並み以上に徳をする、ということなってしまいます。

ところが、み仏の教えは三世の因果を説くわけで、悪いことをすればその報いとしての災いが自分の身に必ず返ってくる。その逆もまたしかりで、良いことをすればその報いとしての幸いが自分の身に返ってくる。そのような道理は、我々の今生だけを見ましても、自明の理として分かるのですから、それが未来にだけは持ち越されないと判断するのは如何なものでしょうか。

したがって、地獄餓鬼畜生というような未来の世界も、ただ単純にそんなものはありはしない、作り話に過ぎないと考えるのは、一方的なものの考え方だといえるのですから、お互いに、そういった心の疑いを、まずは取り除いてみてはどうでしょうか?

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難しきをやわらかに

池上彰氏テレビなどで活躍されている池上彰さんの解説は、大人でも分かりにくいようなことを易しく説明して下さるから、私などが聞いていてもよく理解できるのでいつも感心しております。

分かりにくいことを分かりやすく説明ができるというのは、実は物事を多く深く学んでいるからで、生半可の知識ですと専門的な言葉の表現が多くなり、聞く側に理解させることは難しいものだと存じます。

以前、学校の先生は生徒に勉強を教える前に、生徒の10倍以上は勉強をしていると聞いたことがあります。

10倍以上、勉強しているからこそ生徒を指導することができるというわけで、それほど教えるということは大変なことなのだと思います。

私も立場上、御法門という仏様の教えを説かせていただくのですが、一座の御法門の時間は10分から15分くらいなのですが、分かりやすく伝えるために、その何十倍も勉強をするわけです。特に文章力のない私はそれ以上の時間がかかり、それでもなかなか伝わらないので教えることの難しさを日々感じております。

そういう意味で池上さんの解説は非常に分かりやすいので、どれだけの勉強を積み重ねているのかと思うとただただ感心するばかりです。

分かりやすく教えていただいているお方といえば仏様です。仏様の教えはもともと一念三千という奥深い教理で、末法という今の時代の人々にはとても理解することは難しいものです。

仏様はそれを見越した上で、お覚りの全てを上行所伝の御題目にこめられ、そして御題目を一筋に唱えることをお教えになられました。その御題目を素直にお唱えさせていただけば、現証の御利益という仏様の覚りの力が顕れて、御題目の偉大さ尊さを感じることができるのです。

御題目を唱えるだけでいいのか?そんな簡単なことでいいのか?と私たちはつい御題目を軽視してしまいがちですが、本当はそんな単純なことではありません。

私たちの想像を絶する修行を積み重ねて、宇宙の真理を覚った仏様だからこそ、難しきを易しく解きほぐすことができたわけで、一番易しい教えとして御題目をお伝え下されたのでしょう。

ですから、私たちは仏様のお優しさとか、ご苦労をよくくみ取って、素直な気持ちで御題目様を頂戴することが何より重要だと思います。

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冷え性?寒がり?

冷え性?寒がり?寒い季節となってきました。関東周辺でも場所によっては気温が朝0度を下回ることもあるようです。

世の中には暑がりと寒がりが分かれるようです。そして私は極端な寒がりでして、私にとっては厳しい季節となります。夏はクールビズが世間では主流ですが、私はスーツの上着を一回も脱がないで平気なくらいです。しかし少しでも寒くなってくると早々にコートを着てしまいます。

よく暑がりな方は「冬は服を着ればいい、夏は服を脱いでも暑い」と言いますが、私にとっては「夏は服を脱げばいい、冬は服を着ても寒い」という感じ方です。

結局、暑がりは服を脱いでも暑い、寒がりは服を着ても寒いということですね。

特に朝は冷え性なせいか、手足の指先がとても冷たく、布団から出るのに気合を入れなければならなくなってきました。そこで冷え性を改善できる方法はないのかと調べてみたところ…冷え性と寒がりはまったく別なものだそうです

寒がりは寒さを感じる度合いが普通の人以上に過敏な人のことで、冷え性は冷えやすい体質ということです。

冷え性だから寒がりだと思っていたのですが、実際は寒がりはただの個性のようなもので直す必要はないとの事、逆に冷え性は末端神経に血液が回っていないということなので、改善をしたほうがよいそうです。

改善する方法として冷えた部分だけを暖めるのはでなく、身体全体、特にお腹を温めること、そして、ごぼう・れんこん・大根・里芋などの主に寒い地方に出来る野菜などを取るといいそうです。

反対に温かい土地にとれる野菜やスナック菓子など科学的に合成されたものは冷え性の方は少し控えたほうがよいそうです。

今後益々寒くなってくると思いますが、冷え性を治し、寒さを克服して寒参詣に励みたいと思います。教務部でも風邪が少し流行ってきております、皆さまも寒さには十分お気をつけ下さい。

余談ですが雪山で遭難した時には冷え性の人の方が、指先は冷えても大事な胴体の部分の体温が保たれるので長生きをできるそうです。しかしここは渋谷ど真ん中ですから関係ないですよね…(^_^;)

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大切にしたい心

12月の京都は朝晩ともに一段と冷え込んできました。京都は盆地のため夏は蒸し暑く、冬は底冷えするので、気候の変化を厳しく感じます。平安時代、清少納言が枕草子に「冬はいみじう寒き、夏は世に知らず暑さ」と歌っておりますので、京都の気候は昔から変わっていないことがわかります。ともあれ冷えは万病の元ですから、関東にお住まいの方々も気をつけてお過ごし下さい。

茶道具さて、およそ1000年の間、京都は日本の政治文化の中心地であったために、色んな老舗が数多くあるそうで、茶道の世界でも中心となる家元がいくつかあります。

有名なのは、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家ですが、現在は約90ぐらいの流派に分かれており、それぞれ作法がちがうものと聞いております。

文化芸事に疎い私などが思いうかべる茶道のイメージは、
「抹茶はにがい」
「作法が色々ある」
「稽古事はきびしい」
など…正直あまり良いイメージではありませんでしたが、私が京都の学校へ行くことに決まりましたら、昔からお世話になっている方より「上洛するなら是非習った方が後で役に立ちますよ」とのお勧めをいただき、学校の合間に稽古をさせていただいております。

先日、茶道の先生との会話の中で、今の時代は快適なマンション住まいが人気となり、部屋が手狭なので和室よりもフローリングの住宅が多く、よって畳の部屋で生活することが少なくなっているみたいです。時代の流れと共に、正座をする機会がなくなり、行儀作法がゆるくなってきたので、茶道に対する興味や関心がなくなってきたのでは、と仰っておりました。

私自身、どちらかといえば茶道は女性が習うものと決めつけておりました。けれども一念発起して勉強させていただきますと、一つ一つの作法の中にも深い精神性があることを教えていただきました。

中でも、いくつかの流派でも共通して重んじられているのが、「和・敬・清・寂」という作法です。これらの字をみると仏教の教えと深いつながりがあるようなので、茶道の4つの精神と仏さまの教えはどのように関係しているのか、とりわけ「和」について考えてみることにいたします。

一般に、和の字は「平和」や「和やか」という言葉などで使われますが、法華経の第16章の如来寿量品には「柔和質直者」という言葉があり、仏様が「和」についてお説き下されています。ごく簡単にいうと、柔和とは一つの考えに偏らない、のびのびとした心のことであります。

しかし、自分の心が柔和であるか柔和でないか、一体どこで判断したらよいのか分かりにくいと思います。自分なりにちょっと考えてみたのですが、自分の考えていることが間違っていると気が付いたら、素直に自分の非を認めて、考え方を補正していく。それが柔和の心の持ち主だといえるのではないでしょうか?

現代社会で茶道の行儀作法がゆるんできたとしても、「和」の精神までも失われてしまうとしたら、そんなに勿体ないことはありません。皆さんも機会があれば日本の古き良き伝統の中から、或いはご信者さんなら御題目を通じて、和の精神を大事にして頂きたいと願う次第であります。

 

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それって、勝負? 

オリンピック今年のビッグニュースとして誰もが認めるものの一つに、2020年の東京オリンピック開催決定、という話題が挙げられるでしょう。

高齢の方々からも、折角東京で開催されるのなら、長生きをして是非オリンピックを見に行こう、という声が聞かれるようになり、結構なことだと思います。

ただ一つ、どうも気になることがあります。それは、このオリンピック招致が決定した日から、テレビでも、週刊誌でも、東京が勝った、日本が勝ったと、まるで、オリンピックの競技をする以前に、自国に招致をすること自体が勝負であるかのような表現が為されていたことです。

これに対し、やはり首都マドリードへの招致を目指していたスペインの高官が、東京オリンピック開催決定後に日本を訪れ、天皇陛下にお会いした際、東京でのオリンピック開催が決定し、誠に喜ばしい限りです、と申し述べておられました。

確かに、このオリンピックに関しては、3都市がそれぞれに、招致に向けての活動を行ってきたのですが、開催地が決定したならば、残念ながら招致を実現できなかった候補地もその決定を祝い、一方、この度選ばれた東京、 そして日本の私共は、その候補地の方々にも頭を下げ協力をお願いするということが、大切なのではないでしょうか。

この事例に見られるように、私達にとって、競争をしあいながらお互いを高め合っていくことも重要ですが、更に、競争を超えた協力を固めていくことが、不可欠なのではないでしょうか。

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ちり紙の使い方から

以前、青森に住んでいた頃はお師匠様から直接ご教導を頂くことができましたが、現在はお師匠のお膝元から離れておりますので、むかし教えて頂いたことを思い出すようにしております。

入寺当初、師匠から褒められるよりも叱られることが多く、自分では素直にさせて頂いているつもりでしたが、お師匠には全く逆に映っていたのだと思います。

お師匠からは、「師匠仕えをまじめにしっかりやれば、三年、五年、十年それ以上の年月を経て、その有り難さが実感できるから、とにかく自分考えの我を通すのではなく、言われたらハイと返事をして、すぐに行動しなさい」と毎日のように言われ続けておりました。

その中の一つに、チリ紙の使い方があります。これは入寺して間もない頃の出来事です。私が何気なく鼻をかんでいたら、

不満顔「なんでそんな使い方をするんだ」
「えっ、いつも通りです」
「その使い方ではもったいない」
「申し訳ございません」
「こう使わせていただくのだよ」

本当ならばすぐに「申し訳ございませんでした」と、自分の非を認めてあやまらなければならないのに、つい我を張ってしまったのです。きっとお師匠は、何が悪いんだという不服そうな私の顔をみて、すべて見抜かれていたことでしょうが、それでも懇切丁寧に教えてくださいました。

「お寺のものは祖師のもの、節約するは我らのつとめ」とあります。そのチリ紙一枚もお祖師さまのものであり、少しもムダにしては自分の果報がなくなり、チリ紙も使えないような身の上になるんだと教えてくださいました。

からといって、お祖師さまのものまでもケチるわけではありません。御宝前のこととなれば、お初穂、お賽銭、ご有志などを日々気持ちよくされておりました。

お寺のお祖師さまの懐が少しでも大きくなるようにいつも考えておられ、自分がひもじい思いをしても弟子の養成をしなくては、自分が得度させていただいたご恩返しにならないと、お師匠はおっしゃっておりました。

まだまだ私は自分考えが強いので、今後自分がまた読み返すときに役に立てばと思い、お師匠から教えて頂いたことを簡単ですがまとめさせていただきました。

お師匠のまねごとでも良いから実行できるように努力精進させていただきたいと思います。みなさんも良い果報が身に付くように、日々の御法門で教わったことを素直に実践させて頂きましょう。まずはお参詣から。

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ハブとマングース

マングース沖縄の観光スポットとして有名な「ハブとマングースのショー」ですが、実は、そんなに歴史が古くないという事を先日知りました。

インターネットなどで調べてみると、そもそもマングースは、日本古来の動物ではなく、インド原産の動物、ジャコウネコ科の雑食獣で、1910年に沖縄へ持ち込まれたそうです。

当初、このマングースの移入はネズミ類の駆除を主な目的としておりましたが、マングースはハブの毒で死ぬことがなく、最後には、ハブを仕留めるという話が広まり、奄美大島などのハブに悩まされている島に放たれ、ハブ退治にも用いられるようになったのだそうです。 

しかし、調査の結果明らかになったことは、マングースの数は増えるがハブの数が減らないというものでした。そしてもう一つの事態が判明しました。それは、アミノクロウサギやトゲネズミ、ケナガネズミといった天然記念物が激減しているということです。もしやと思い、マングースを捕獲し何を食べているか調査したところ、やはり胃の中からはハブの死骸は見られず、天然記念物の死骸が見つかったというのです。

そもそも本来ハブは夜行性であるのに対して、マングースは昼行性であり、両者は時間的に棲み分けており、マングースはあえてハブのような危険な動物を補食することなどないのだそうです。

そして、この事実が明らかになった結果、奄美大島においては1993年から自治体がマングースの駆除を開始し、数年かけて個体数を減少させたあと、その後の数年間で根絶させる計画なのだそうです。

私はこのことを知った時、なぜ罪のない動物たちが犠牲にならなければならないのだろうとやりきれない想いにかられました。確かに私たち人間の生活を守るために考えられたことなのだろうとは思いますが、ハブもマングースもそれぞれの生活があるはずです。

私たち人類は頭脳を発達させ、その知能であらゆる文化を築き上げてきましたが、やはり自然界の全てを人間の力でコントロールするのは、どだい無理なことだといえるのでしょう。人間の力を過信して自分達だけが都合の良いようにしようとしても、無理がたたるというか、つまらない結果にしかならないわけで、その犠牲として必要以上に多くの命を奪い、私たち人間の生活環境までに影響を及ぼしてしまう。はてには人間自体が暮らせない世界になってしまうのではないかと不安になりました。

私たちは今一度、自然に生かされ生きているということを心得て、仏様が教えて下された和合の精神で物事を進めていかなければいけないと強く感じました。

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噛む噛む30回

噛む噛む最近食事の後、どうも胃がもたれたり胸焼けをすることが多くなり胃薬を飲む機会が増えていた。

そんな時うちの奥さんから「あなたは少し食べるのが早すぎます。全然口に入れた物を噛んでいない。一口30回噛むようにしたら随分変わるんじゃない。」と一口30回噛むことを勧められた。

よくよく考えれば私も今年で37歳。40歳の大台が見えてきた。なのに食事の仕方は20代のままである。自分も少し年をとってきたんだな。多少、体のことも考えないとと思い、噛むのを30回にするくらいならとさっそく実行してみた。

しかしいざやってみるとこれがなかなか面倒くさい。しかも食事にかなり時間がかかる。教務は早飯が当たり前と思って今日までやってきた私にはとても長く感じられ非常にうっとうしい作業なのである。

ところがこれがこの「噛む噛む30回」のねらい目というか良いところなのだそうである。つまり時間がかかって面倒くさいから、もういいやと思うようになり食べ過ぎを防ぐというのである。そしてよく噛むことによって脳の満腹中枢が刺激され満腹感を早く感じることが出来、さらに食べ過ぎを防ぎダイエットにつながるのである。

また噛むことによってたくさんの唾液が出て内臓の負担を軽くする。唾液には食べ物を消化する大事な消化酵素が含まれていて、これが少ないとそれを補うために胃がたくさんの胃酸を出してしまい胸焼けなどをおこすのだそうだ。

確かに「噛む噛む30回」を始めてから胃がもたれたり胸焼けをすることがかなり減った。また食べる量も少し減ったように思う。

立ち止まってよく考えてみれば健康だからこそ毎日の御奉公がさせて頂けるのである。そろそろ自分の体のことにも気をつけなければいけないよとの御法様からのお折伏だと受け取らせて頂き、当分この「噛む噛む30回」を続けて行こうとおもう今日この頃であります。

佛立開導日扇聖人御教歌
よけくたら 力がつくと 思ふなよ  腹八分目 其身相応

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