見えるモノ、見えないモノ

この世には、目に見えるモノと目に見えないモノがあります。

一本の木に喩えていえば、幹や枝葉は私たちの目に見えますが、地下にかくれた根っこは目に見えません。通常、根っこの存在などは意識もしませんし、正直あってもなくても同じことのように思いますが、では根っこを断ち切っても樹木は存在し得るのかといえば、実際そうではありません。目に見えないところもふくめて一つの命といえるはずで、実はこうしたことは我々人間の命についても同じことなのです。

目に見える今の私達、その命の中には、両親をはじめ無数の先祖といった、目に見えない命の根っこがあるのです。ご先祖がいなければ今の自分だって当然いないはずで、大きな流れの上から見れば、我々の命も先祖の命も一つにつながっていると申せます。

そもそも、我々が生きているこの世界だって、いったい誰が作りあげたものでしょう。人類の長い歴史の中で、無量の先祖達が築き上げたモノの上に、今の私たちは立っています。それなのに、目に見える現存の関係だけを大事にして、目に見えない死者との関係をないがしろにしたりすると、私たちを支えてくれている全ての土台が崩れてしまいます。根っこの切れた樹木はたちまち枯れてしまうように、先祖とのつながりが切れてしまったら、我々の命や社会は立ち枯れて腐蝕していくばかりなのです。

だいたい我々の生きるこの世界には、目に見えないことや、分からないことがまだまだたくさんあるわけで、この世はいつまでも神秘に包まれています。自分なんかにはまだまだ分からないことがたくさんあると、そういう謙虚な心で物事を見つめていかないと、いつのまにか傲慢という落とし穴におちいってしまいます。

ですから、仏教のみ教えでは自分の偏見を飛び越えて、もう一段上にある物の見方を提唱されています。目に見える物と目に見えない物、それらの両面を見つめて、そのどちらにもかたよらない。いわゆる中道という物の見方をして、万物を眺めるようにするのです。

先祖の魂というものに対しても、霊魂というのは肉眼では見えませんが、だからといってそのハタラキを軽視してはダメで、私たちの根元ともいえるご先祖のことを、大事にお敬い申し上げるのです。お墓を大事に守ったり御塔婆を立てたり、更には、上行所伝の御題目をお唱えして、ご先祖のご回向をさせていただきますと、仏様もご先祖方も大変喜ばれますし、それ以上にこちらも気分がホッとして、御法様にお任せしていれば大丈夫と、安心感で満たされてきます。

自力に頼らなくても仏力を頼むことによって、毎日自宅でもご回向がさせて頂ける、こうしたところにもご信者としての有り難さがあるわけです。そうやって、いつもご先祖のおかげに感謝していれば、目に見えない影の力が働いて、私たちの人生が「目に見えて」必ず良くなっていくものです。

7月8月はお盆の時期ですから、自分のご先祖様にねんごろにご回向をさせて頂いて、命のつながりをよく見つめ直すことが大切かと存じ上げます。

 

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見えるモノ、見えないモノ” への1件のコメント

  1. そうですね。ご先祖様は確かに私たちを見守っています。特にお盆の頃にご先祖を大切にする風習を家族に伝えて行きましょう。それは取りも直さず佛立宗の根幹ですね。
    有難うございました。

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