集中力

個人差のある話ですが、勉強のとき、教科書や資料と面と向かっていても、内容がなかなか頭に入ってこない。部屋の掃除をしていて、思い出のアルバムなどが出てきてしまったら最後。その日はまったく掃除が進まなかった。

もしかして私は集中力が無いのではないか。そのように自分のことを思っている人も、いらっしゃるかもしれません。

しかし集中力が悪い人間は、実はいないそうで自分で自分の集中力を無意識に妨げてしまっているケースが殆どだというのです。

例えば、勉強は辛い!仕事はしんどい!と自分で決め付けてしまいますと、当然集中できなくなってしまいます。ですが、自分の好きなことに対しては抜群の集中力を発揮できるものです。

そこで御信心における御題目の口唱行に集中力が発揮できているかといえば、我々凡夫にとっては、なかなかそうとは言い切れないものです。私達は、つい目の前の日常の生活に振り回されたり、欲にひかれてしまうなど口唱行に集中できないものです。

御教歌には
余念なく妙法五字を唱ふれば よろずの願ひ中に成就

とお示しのように、集中したお題目を唱えることでお互いの願い事が叶うと仰せですから、次のようなことを心掛けたものです。

①御看経をあげる時間帯を決める。
時間を決めておくことで、その時間帯の用事を避けられ、きっちり御看経が上がります。

②御宝前を荘厳させて頂くこと。
お花が枯れていたり、お道具の紋様が曲がっていたのでは、つい気になってしまいます。

③木琴や拍子木をしっかり打つ。
自分の御題目の声と併せてリズム良く打ちますと、気が付いたら時間が過ぎているほど集中していたこともあるでしょう。

④御願いを持つこと。
願い事としっかり向き合うことで口唱に身が入ります。

⑤とにかく御宝前の前に座る。
気が進まなくても、御宝前の前に座り、お明かりをつけて、小さく弱いお題目からでもお唱えさせていただけば、経力をいただいて、口唱にだんだん力がこもってくるものです。

このようなことを心掛けて、お互いに御利益に通じる余念のない口唱を目指しましょう。

Share on Facebook

肝心要

「肝心要」という語源は色々な説がございますが、とかく全体の中で極めて重要な位置や役割にあるさまをあらわし、絶体に欠かせない等とても大切な意味で使われます。

世間一般に肝心要といわれるものには、例えばスポーツの野球において、キャッチャーというポジションは、守りの要と言われます。

私は小さい頃から野球をしておりましたが、最初は一番目立つ花形のピッチャーの良し悪しこそ試合を作っていく上で重要なポジションであると思ってました。

しかし、そのピッチャーの状態を常に把握し、調子をいかに引き出すか、また相手バッターとの駆け引き、守備位置の確認等キャッチャーは広い視野で味方に指示をだすなど、試合をする上で中心となるのがキャッチャーなのでございます。
一見あまり目のいかないところではありますが、決して軽視できない重要なポジションでございます。

ご信心に於いても同じことがいえます。仏様はこの世の一切衆生をお救いになるために八万四千といわれる莫大な教えをお説きになられましたが、
その教えの中にも肝心要の教えがあるのでございます。

野球におけるキャッチャーのように、仏様は移りゆく時代に合わせ教えを説く相手の能力に応じて、末法の状態をよく把握した上で、仏道修行の仕方を臨機応変に変えられるのでございます。

そうしたご配慮のもと、現代に生きる私たちが気持ちよくご信心に打ち込めるように、上行所伝のお題目を口に唱え重ねる修行をお残し下されたのでございます。

ところが世の中の多くの宗旨では、仏様の教えの肝心である御題目だけでは物足りなく感じるのか、法華経を読誦する修行が中心となったり、難業苦行という修行の方が目立って好まれる傾向があります。

しかし、仏様は過去・現在・未来と三世にわたる大きな視野をもって、末法に生きる私達へ肝心要となる御題目をお残しくだされたのですから、その中心をないがしろにするようなことではいけないのでございます。

 

ですから、佛立宗のご信心では仏様の教えをそのまま頂戴して、どこまでも御題目口唱を中心とした信心修行に励まさせていただいているのでございます。

Share on Facebook