集中力

個人差のある話ですが、勉強のとき、教科書や資料と面と向かっていても、内容がなかなか頭に入ってこない。部屋の掃除をしていて、思い出のアルバムなどが出てきてしまったら最後。その日はまったく掃除が進まなかった。

もしかして私は集中力が無いのではないか。そのように自分のことを思っている人も、いらっしゃるかもしれません。

しかし集中力が悪い人間は、実はいないそうで自分で自分の集中力を無意識に妨げてしまっているケースが殆どだというのです。

例えば、勉強は辛い!仕事はしんどい!と自分で決め付けてしまいますと、当然集中できなくなってしまいます。ですが、自分の好きなことに対しては抜群の集中力を発揮できるものです。

そこで御信心における御題目の口唱行に集中力が発揮できているかといえば、我々凡夫にとっては、なかなかそうとは言い切れないものです。私達は、つい目の前の日常の生活に振り回されたり、欲にひかれてしまうなど口唱行に集中できないものです。

御教歌には
余念なく妙法五字を唱ふれば よろずの願ひ中に成就

とお示しのように、集中したお題目を唱えることでお互いの願い事が叶うと仰せですから、次のようなことを心掛けたものです。

①御看経をあげる時間帯を決める。
時間を決めておくことで、その時間帯の用事を避けられ、きっちり御看経が上がります。

②御宝前を荘厳させて頂くこと。
お花が枯れていたり、お道具の紋様が曲がっていたのでは、つい気になってしまいます。

③木琴や拍子木をしっかり打つ。
自分の御題目の声と併せてリズム良く打ちますと、気が付いたら時間が過ぎているほど集中していたこともあるでしょう。

④御願いを持つこと。
願い事としっかり向き合うことで口唱に身が入ります。

⑤とにかく御宝前の前に座る。
気が進まなくても、御宝前の前に座り、お明かりをつけて、小さく弱いお題目からでもお唱えさせていただけば、経力をいただいて、口唱にだんだん力がこもってくるものです。

このようなことを心掛けて、お互いに御利益に通じる余念のない口唱を目指しましょう。

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肝心要

「肝心要」という語源は色々な説がございますが、とかく全体の中で極めて重要な位置や役割にあるさまをあらわし、絶体に欠かせない等とても大切な意味で使われます。

世間一般に肝心要といわれるものには、例えばスポーツの野球において、キャッチャーというポジションは、守りの要と言われます。

私は小さい頃から野球をしておりましたが、最初は一番目立つ花形のピッチャーの良し悪しこそ試合を作っていく上で重要なポジションであると思ってました。

しかし、そのピッチャーの状態を常に把握し、調子をいかに引き出すか、また相手バッターとの駆け引き、守備位置の確認等キャッチャーは広い視野で味方に指示をだすなど、試合をする上で中心となるのがキャッチャーなのでございます。
一見あまり目のいかないところではありますが、決して軽視できない重要なポジションでございます。

ご信心に於いても同じことがいえます。仏様はこの世の一切衆生をお救いになるために八万四千といわれる莫大な教えをお説きになられましたが、
その教えの中にも肝心要の教えがあるのでございます。

野球におけるキャッチャーのように、仏様は移りゆく時代に合わせ教えを説く相手の能力に応じて、末法の状態をよく把握した上で、仏道修行の仕方を臨機応変に変えられるのでございます。

そうしたご配慮のもと、現代に生きる私たちが気持ちよくご信心に打ち込めるように、上行所伝のお題目を口に唱え重ねる修行をお残し下されたのでございます。

ところが世の中の多くの宗旨では、仏様の教えの肝心である御題目だけでは物足りなく感じるのか、法華経を読誦する修行が中心となったり、難業苦行という修行の方が目立って好まれる傾向があります。

しかし、仏様は過去・現在・未来と三世にわたる大きな視野をもって、末法に生きる私達へ肝心要となる御題目をお残しくだされたのですから、その中心をないがしろにするようなことではいけないのでございます。

 

ですから、佛立宗のご信心では仏様の教えをそのまま頂戴して、どこまでも御題目口唱を中心とした信心修行に励まさせていただいているのでございます。

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さんげ

開導聖人御教歌
「さんげせば心の罪や消えぬらん 身におひきつるおも荷おろして」

私たちは、何か悪しき行いをした時、それを隠そうとするものです。
幼い頃であれば、家の”もの”を壊したとき、親に隠そうとするものです。

しかしながら、隠していることが段々と苦しくなり、気分が落ち込むようになります。最終的には、親に真実を話して、その時は叱られますが、心の中はすっきりとするものです。

誰しも、このような経験があるものかと思いますが、ちょっとした悪事を告白し、罪の意識から開放される心境が「身ににおひきつるおも荷おろして」ということになります。

ちょっとした嘘、陰口悪口、仕事上での些細なミスなど、大人になりましても隠しておきたいことは多々あるものです。放っておけば、分からないということでも、後々になって支障をきたすことも多々あります。

小さな悪事も放っておかず、迷惑をかけた人に対して誠実に対処をすることが大切です。

また、御教歌には「さんげ」とありますが、これは罪を告白することだけで良いとするものではありません。悪事を告白し、二度と繰り返さないように誓い、行いを正すことが「さんげ」なのです。

「すいません」とあやまって、それでよしとして、行いを正さなければ、本質的には何も変わりません。過去を反省したあと、行動を改めていくことが肝心なのです。

学校や会社に遅刻をしたのであれば、前日の夜、少し早く寝て早起きをするよう改善する。上司からの頼まれごとを忘れてしまったのであれば、すぐにメモを取って見直すくせをつける。お金をあっという間に使ってしまうのであれば、まず最初に貯金をする。

など、ちょっとしたことの改善の積み重ねが、自分自身の成長に繋がるのです。

自分の行いを見つめなおし、悪かった点があれば非を認め、行いを正すことが大切です。

ましてお互い、遠い過去世から今生に至るまで、御法を謗る悪事を行ってきたのでありますから、教え通りの信心修行につとめる「さんげ」行をさせていただくことが大事です。

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馬鹿になれ

昔、先輩から「馬鹿になれ」と教えていただいたことがあります。人間は誰しもこだわりやプライドを持ち生活をしているのだと思うのですが、特に私の場合は変なプライドというものがありまして、どちらかと言うと自分は正しい人間だと思っていました。

そうした小さなプライドを守るために、自分の考えを押し通しますから、その考えを馬鹿にされたりすると、すぐに怒りの心を抱いていました。そして、そういう自分の考えと合わない人を遠ざけて、そういう人達をかえって見下して馬鹿にする態度をとってしまうのです。

本当は自分の考えが少なからず間違っているのに、相手ばかりを責めてしまう。本当の自分を馬鹿にされるのが怖かったから…自分を守りたかったかもしれません。

そんな哀れな態度が見て取られたのか、先輩が「馬鹿になれ」と忠告してくれたのだと思うのです。とにかく自分が馬鹿だなあ、恥ずかしいなあ、間違っているなあと思うことをやってみる。注(物には限度というものがありますから、人に迷惑かけない程度に・・・)

そうすると自分も馬鹿だなあと素直に思えてくるものです。そう思えてくると、なんだかすごく楽な気分になり、いままで片意地をはっていたことが何でもないことに気付いたりします。そして、相手の嫌な所が実は自分にもあること、自分もそんな偉そうなことを言えた人間ではないことも思えたりします。

そんなことで、相手に対して、多少のことで怒らなくなり、変に人を見下すことがなくなり、敬うという気持ちも起きてきました。世界が変わってみえてくる。性格も明るく、柔らかくなれた気がします。

なにも自分を卑下しなさいと言っているのではなくて、自分自身の嫌な部分、馬鹿さ加減をしることが大切であって、お互い様だと思えればいいと思います。お互い様だと思っている人には、とても親しみを感じます。

反対に、へんに威張っている人、私が正しいと思っている人は、近づきにくいものがありますし、自分のことも省みれない人だと思われてしまいますし、たぶん、そういう人は、結構辛く感じることが多いのではないかと思います。

先輩の言わんとする所を、まだまだお伝えできていないと存じますが、お互いに変なプライドは早く捨て去ってしまい、愚かな自分も素直に認めて、そしてお互いさまという気持ちを心に抱いて生きていくことこそが、自分もみんなも幸せに近づく道だと、そのように感じている次第です。

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他の人のためという心

先日、「大失敗にも、大不況にも負けなかった、社長たちの物語」と言う本を読んでいましたら、その中にカーネル・サンダース氏のお話がありましたので、紹介させていただきます。

誰もが一度は口にしたことがあるであろう、ケンタッキーフライドチキンの創業者であり、そのどの店舗にもサンダース氏が笑みを浮かべた人形が立ってあります。

しかし、あの笑顔とは裏腹に、彼はとても喧嘩っ早い性分だったそうです。
彼が務めた業種は数多く、農業、鉄道会社、弁護士、保険外交官、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマンなど「転職王」と言われても過言ではない方だと言われています。

どの業種も成果を挙げていたのですが、彼はあまりに正義感が強く頑固であったせいか、どの業種の人ともうまく行かず、喧嘩しては辞め喧嘩しては辞めの繰り返しだったそうです。

そんな彼がガソリンスタンドの経営を始めました。そこで、お腹を空かせたドライバーも多いことから店の脇に小さなカフェを始め、そこで出したチキンが大好評となり、そこからケンタッキーフライドチキンが始まったそうです。

彼の経営方針は興味深く、一番大切にしていたのはお客様に対するサービス精神だったそうです。スタンドに来たお客の車を隅から隅までキレイにし終わると「なにか他にできることはありませんか?」と必ず聞いていたそうです。

また、スタンドにはよらず、店の前の道で地図を広げているドライバーを見つけると、すかさず飛んで行き「どちらに向かっているのですか?」と伺い丁寧に道を教えてあげていたそうです。

なぜ彼がそこまでしてサービスにこだわったのかと言うと、「他の人に最高のサービスをする人が、もっとも利益を得る人だ」「自分の利益のことを考える前にまず貢献すること」と話されたそうです。

そんなサンダース氏の接客の良さが好評となり、当時のドライバーは皆、彼のお店にガソリンを入れに行っていたそうです。

他の人のことは第一に考えるということは、難しいことですが世の中において成功をおさめた人というのは、自分のことよりも他の人のことを考えているものです。

仏教においても、他の幸せを優先的に考え時間や身体などを使うことが大切で、それが自分自身の幸せにも繋がると教えられております。

お互いに、忙しい世の中において、他の人のためという心を見失わないようにしていきましょう。

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心の栄養素となることに関心を持とう

私達は何歳になっても、生きている限り、何かすることがあるというとはとても有難いことだと思います。

生活の糧を得るために働く、それも大事な事です。けれども仕事を離れたところでも
自分の人生を充実させるような役割なり、趣味をもっていないと、心身共に衰えてしまいます。

そういう意味で常日頃から自分の人生を充実させるようなことに興味、関心を持つように心がけたいものです。私事になりますが、ドラムを演奏するのが趣味ですので時々、渋谷のスタジオに行ってドラムを叩きにいっております。

スタジオには高齢でバンドを組んでいる人もみかけますが、やっぱり趣味に講じている人は若々しいです!!

特に趣味などもってない方は何でもよいので自分の気に入った物や興味のある物に取り組んでみましょう、きっとイキイキ、ハツラツになります。

そして「心の栄養素」といえば御題目口唱は何よりの心の、そして体にとっても栄養素です。

寒参詣も残り後わずかですが、常日頃からお参詣して御題目をお唱えいたしましょう!!

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御利益ということ

佛立開導日扇聖人御指南
「御利生の妙は水中の火 木中の花也」

妙法御題目の不思議さは、喩えていえば水の中で火を見るように非現実的なことであり、私達の常識で考えても分かりません。

また、木の上に花が咲くということも、当たり前のように感じますが、それだってよくよく考えてみると、木の中に花があるわけでもないのに、何で毎年同じように花が咲くのか、とても不思議なモノであります。

結局のところ自然界の道理というのは、人間には理解できない部分が多くあり、自然の摂理としてそうと決まっていることを、何だか分からないけれどもそういうモノなのだと、目に見える部分だけで納得するしかありません。
 
それでも、花が咲くのを実際に見れば、その美しさによって自然と心が癒やされるように、妙法の御利益を見れば御題目の不思議さに有り難みを感じて、自然と信心が起きてくるものです。

理屈として分からないことであっても、実行すればこそ答えがでて、目で見ればこそ心が変わってくる、そういう理屈を超えた実践行として、毎日の口唱行に励まなくては、妙法の貴さは分かってこないのです。

お互いに、御看経の徳は必ず目に見えてくるモノと心得、毎朝毎夕の御看経を真剣に真心こめてさせていただきましょう。

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生命(いのち)

生命はどこから来て、どこへ行くのだろうか。と言う本の見出しを以前見ました。普通私共が考える生命は、オギャー!と生まれて死ぬまでの間のことと思っています。 

しかし、佛さまは、生命というものは永遠につながっていると説かれています。永遠?ずっーと?つづいている?。今生きているのが現在。生まれる前の過去と死んでからの未来。つまり過去世、現世、未来世の三世観を説かれています。

そして、現在のあらゆる楽しみや苦しみの原因(もと)は過去世の行ないの結果といい、現在の行ないの結果が未来世に報うといいます。このように永遠とつながっているのです。

ですから、現在の境遇が他とくらべて恵まれていなくても、なげくことも悲しむこともありません。現在の種まき(行ない)を良くしていけば良く変わって来ると仰せ下されているからです。

そして、良くしていくと言う事ですが、良し悪しの判断を自分でつけると都合良く善悪が変わってしまいますから、ここは、佛さまの教えを定規にすることが大事です。

人に喜ばれることは善、人に嫌われることは悪と言えますが、善因善果、悪因悪果と佛さまはお示しです。何が善なのか、何が悪なのかをハッキリしめして下さっています。

どうぞ、私共が本当の幸せをにぎる唯一の方法は佛さまの教えを学ぶ、身につけることです。信じて行じていけば、たった今から私共の生命(運命)は変わってくるのです。

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初氷観測

IMG_20170116_082349数日前から寒さも一段と厳しくなり、空気が冷たいというより痛く感じるようになりました。早朝は暗くてよくわかりませんでしたが、9時くらいに妙証池を見てみると氷がはっていました。

東京では12日に初氷を観測と発表していました。例年より26日遅く、昨年より1日早い観測だそうです。妙証池では今日が初氷かと思うのですが…

そういえば氷で話題になったのが、渋谷にある東急百貨店本店の屋上。なんでもカーリングが楽しめるそうです。いろいろな試みをしてるのですね。さすがに妙証池ではできませんが(^^;

寒参詣も中盤に差し掛かるところです。寒さ対策はもちろん、凍結による転倒、事故などにはお互いに十分に気を付けて寒参詣に励みましょうo(^o^)o

 

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現代の交通手段

昨年までは地域の関係上、車での御奉公が多くありましたが、今年は電車での御奉公が多くなりそうです。先日、久しぶりに電車に乗り、やはり時刻通りに来るのは有り難いと感じる所です。

今では電車はなくてはならい交通手段ですが、その歴史は明治5年にさかのぼります。新橋駅から横浜駅を走る鉄道(汽車)が日本で初めて開業したといいます。

現在の東海道本線の前身でその後、大阪駅―神戸駅間が開業し、数回にわたる路線延長を経て明治22年に新橋駅―神戸駅間の全線が開業したそうです。

鉄道が通るまでは、馬や籠に乗り歩くなどして東京まで2週間ほどかかったのが一日で行けるようになったというのですから、当時の人々にとっては相当の驚きであったはずです。

時代を経て今では、新幹線、それより早いリニアモーターカーが開発されています。そうした現代社会において遠くの目的地に歩いて行こうとする人、また歩ける人も皆無と言っていいでしょう。

仏教においても、現代に適したみ教えというものがあります。釈尊ご入滅後二千年以上経過した現代を末法とよび、この末法の人々は、それ以前の人々より、仏道への志も薄く、修行を修められるだけの能力もないとされています。

難行苦行は今の人には、修められる人はいない。もし望むならば、それは東京から大阪まで歩くような無謀なことになる。今末法時代の仏道修行は、仏様の全ての功徳が納められた法を一筋に信じ、仏力経力をいただくことが大切だと教わります。

仏力経力という汽車に乗れば、幸せという目的地にたどりつけるのです。あとは信じて乗るだけです。

御教歌
東京へ一日でゆかん世の中に 氣車をきらひて ありくのはたれ

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未来の一座「開導聖人書画展」

10月に入ったというのに暑い日が多くてあまり秋らしさを感じないかと思えば、急に涼しくなったりして体調管理の難しい気候が続いています。

i大荒木の

いよいよ「乗泉寺の未来をつくる一座」が近づいてきて、スタッフのみんなも映像の処理やら企画の調整など大変忙しくなってきました。

この陽気で体調をくずさなければ良いのですが、異体同心でラストスパートをかけ頑張っていきたいと思います。

さて、10月23日の未来の一座は、第一部本堂10:30~、第二部境内12:30~(新住職就任祝賀パーティー)の二部構成になっております。

第一部は勿論のこと、第二部でも企画が盛りだくさんのようで、中でも乗泉寺が所蔵する開導聖人の書画を一部公開する予定になっております。

ご存じのように、開導聖人は幕末から明治にかけて活躍された宗教家であると共に、幼少の頃から儒学・和歌・書道・日本画をよくし、長じて国学を修めた超一流の文化人でもあられました。

特に、書画においては江戸末期の三筆と言われたり、当時の知識層などが掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されました。

御教歌→
「大荒木の 杜に声する梟の 
       なくも心の ままにや有るらん」

破れても

 

また、明治天皇の和歌の教師であった高崎正風が、日扇聖人の詠んだ歌を優れた歌として明治天皇に紹介し、明治天皇がその歌を非常に賞賛されたそうです。

ちなみにそのお歌も乗泉寺に所蔵されているのですが残念ながら今回は展示されません。

明治天皇以外にも三条実美などの公家にも、日扇聖人の短冊を所望する声が多かったとのことですから、開導聖人がいかに優れた歌人であったかが伺い知れると存じます。

普段は絶対に見られないお宝を、この日だけに限って公開しますので、ぜひぜひご家族そろってお参詣いただきますようお勧め申し上げます。合掌

←御教歌 
「破れても をれてもさせる 傘(からかさ)の
      金魚にかへば タッタ一匹」

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法華経

本門仏立宗では法華経(妙法蓮華経)を根本経典としており、その法華経こそは仏教における最高聖典だといわれています。法華経が中国で翻訳されたとき、天台大師はそれこそ山ほどあったお経典の中で、一番優れているのはどれだろうと研究されました。

蓮華草それまで読まれてきた原始経典や、華厳経や般若経などの教えと、法華経の教えとを色んな角度から比べて、お経典の順位づけをなされた結果、法華経こそが諸経の中の王様であると判断なされたのです。

いわゆる天台法華哲学の教えは、やがて中国から日本へと伝わり、比叡山を中心として法華経の教えが弘められていきました。鎌倉新仏教の祖師と称せられる人人、法然さん、親鸞さん、道元さん、そしてお祖師様日蓮聖人もまた、叡山の学僧となって法華経にふれ、天台法華哲学を学ばれたのであります。

ただし天台法華の教理は非常に複雑なため、一部の出家だけが山籠もりで修行をし、現実の社会とはかけ離れたところにあって、一般庶民には殆ど縁の薄いモノでした。

人の社会

 

叡山での修行をへて、仏法と世法とが大きく距たっていることに疑問を持たれたお祖師様は、天台大師の理論を拠り所とされながらも、もっと現実に即した観点から法華経をご覧になられました。

 

つまり、より実践的で対社会的な布教活動に目を向けて、法華経の菩薩行を民衆の中へと促されたのであります。即ち、法華経の肝心である上行所伝の御題目を、信心で頂いて口唱に励むことが、末法における唯一成仏の方法であるという結論に到ったわけであります。

それまでの修行者のように、山へこもってひたすら法華経を読んだり、写経をしたり、頭に記憶するといった、非社会的な修行をいくらしても、万民を救うことは決して出来ません。ましてや、どんなに難しい理論を学んだり、覚えたとしても、それは机上の空論となりかねず、末法には相応しくない修行だといえます。

太陽例えば、宇宙に広がる満天の星々が私達の生活に何らの影響も及ぼさず、我々の銀河にあっては中心の太陽こそが地球生命にとってかけがえのない存在です。

同様に、世の中には色んな教えや学問があるとしても、人人の生活と直接関係しながら、命を正しい方へと導くことができるのは、諸経の中心ともいえる法華経のみ教えだけなのです。

太陽の光に浴してあらゆる生命が誕生していくように、法華経の光に浴することで凡夫の命が菩薩の命として生まれ変わることが叶うのです。いわば、法華経は菩薩をつくりだすために説かれている教えなのです。お互いに人として生まれたからには、菩薩行とは何ぞや?と、自らに答い続けていく必要があります。

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命の大切さ

我々人間にとって、一番大事にしているモノはなにかといえば、当然ながら命ほどに大事な物はないはずです。では、その何より大切な命を本当に大事にしているかといえば、意外と命を粗末にしている人が多いのではないでしょうか。

働きづめの過労で命を落とす人、過激なダイエットで健康を害する人、危険をかえりみない命知らずな人、などなど、命を粗末にしても何とも思わない人が、世間にはたくさんいるようです。

しかし冷静になって考えれば、自らの命を削るようなことをしてまでも、手に入れなければいけないモノが一体どこにあるというのでしょう?命を失えば何もかも失ってしまうわけで、全ては命あっての物種であります。

そんな易しい分別もつかないほどに、私たち人間の執着というのは、正しい判断が狂ってしまっているのです。或いは、私達が信じ込んでいる社会の常識さえも、大きく混迷している状態にあるのです。

そもそもからすれば、命や健康というモノは、お金では買えない程の得がたい価値があるモノです。当たり前のことですが、世の中の風潮として命が軽んじられているようですから、「生命の尊重」を強調していくことが現代に求められているのではないでしょうか。

勿論、信心修行も命が資本ですから、正しいご信心を持つお互いは、命を粗末にするようなことを慎み、体の養生に努めることが大切です。せっかく授かった自分の命を大事にできないなら、他人の命だって大事にできるわけがありません。菩薩行を心がける私達ご信者は、自分も含めた全ての生命を尊重する、そういう心が根本にないといけないのリスです。

お祖師様日蓮聖人は、「命と申物は一身第一の珍宝也。乃至。一日もいきてをはせば功徳つもるべし。あらおしの命や命や」(可延定業御書)と仰せになっております。

お互いに、儚い命を無駄にすることのないよう、菩薩行に目覚めて、真に価値ある一生を送りたいものです。

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和合の世界

社会の中で他人と共存して生きている私達は、周囲の人たちとどういった姿勢でお付き合いをするべきでしょう。

そもそも近代社会の風潮としては、人付き合いをさける傾向にあるようです。人付き合いなんて無い方が楽だと考えて、ご近所づきあいも希薄な関係になりつつあり、一歩踏み込んで人とお付き合いをすることがなくなってきています。

しかし、こういった傾向は何だか矛盾を含んでいるように思えます。そもそも孤独になりたいのであれば、何の為に社会の中で生きているのでしょう。人里離れた山奥なんかで一人っきりで生きていくには心細いから、わざわざ都会に集まって他人と一緒に生活をしているのです。それだったら、もっと前向きに人と交流していかなかったら、何の為に大都会で生活をしているのか分かりません。

平和だいたい、人と人が交わって生きていくのが社会なのです。社会というのは、人と人とが知り合い、助け合って、お互いのことを理解し合える場所のことです。そういう暖かみのある世界を目指して、少しでも我が身を献じていきませんと、いつまでたっても理想的な生活は送れないのです。

例えば、幼い子供が扇風機に手を伸ばして、隙間から指を入れようとしているとします。無邪気な子供はそれがどういった結果に繋がるのか、先のことをまるで考えていない場合が多いのです。いくら子供の遊びだからといっても、痛い思いをするのは可哀相だと思って、近くにいる大人が危ないから止めなさいと注意してあげる、これは当然の思いやりであります。

分別のつかない子供を守るには、無理矢理にでも危険から遠ざけなくてはならないわけです。痛い思いをするのは本人だから私は関係ないと無視したり、子供は何度言っても話を聞かないから面倒なので相手にしたくないと、もしもそんな風に考えるなら、まるで人の痛みを理解しない無慈悲な人といえるでしょう。

自分が守ってあげるべき人を大切に守り、伝えるべきことはしっかりと伝える、それを仏法では折伏行と申します。気ままな人間の危うい行為を無闇に放っておいたら、未来はどうなってしまうか分からないのですから、駄目なモノは駄目なんだと、人のあやまちを未然に防ぐことが本当の優しさであることを、私達は早く気づきたいものです。

子供に注意を与えるのとは違い、大人同士のつきあいは複雑だから、うるさいことは言わないで黙っていた方が得策だと思う、それが凡夫の考え違いであるということをお互いによく自覚して、折伏の決意を持って人助けに励みたいモノです。

お互いの良いところは吸収し合い、悪いところは戒めあってこそ、理想の社会に近づいていけるはずです。人付き合いをさけて通ったとしても、それは苦しい思いを先延ばしにしているだけなのですから、一時的に楽ができても本当の安心には繋がらない、そういったことを教えられているのが、仏教の教えなのです。その教えを全体の幸福の為に役立てていきたいモノです。

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