根っこの価値

「咲いた花見て喜ぶなら  咲かせた根っこの恩を知れ」

縁を受けて
桜の時季は過ぎましたが、日本では四季折々、花や木々が、私たちの目を楽しませてくれます。そんな綺麗な花や紅葉した木々につい目を奪われますが、地中に目を向けると、ただひたすら幹や茎を支え、栄養を吸収する存在がいます。「根っこ」です。

 

根っこ
根っこのお陰で、花や木々は綺麗な姿を見せてくれるのです。私たちの人生も同様です。この世に自分一人の力だけで生きている人などひとりもいないのです。誰でも多くの人たちに支えられ今があるのです。

 

光に溶けて
お互いは「お陰」を知ることが大切です。そういったお陰を感じ、その方々の幸せを祈るのが佛立宗です。

あなたにとっての「根っこ」の存在を考えてみてください。

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社会の平和を目指して

廃墟と化した街
ちょっと前のことになりますが、北朝鮮がミサイルを発射して、日本中が騒然となりました。宇宙に飛ばせば人工衛星ロケット、他国に向けると長距離弾道ミサイル。どんなにすぐれた発明品も、それをあつかう人間が悪用すれば、人を傷つけるモノになってしまいます。

 

文明と人間とは互いに切っても切れない関係にあるのですから、世も人も共に良い方へと変わってこそ、笑顔の絶えない社会が実現して、心からおめでたいといえるのです。

仏様は、社会ということについて、こんなふうに仰っています。

「幾千万の人が住んでいても、互いに知り合うことがなければ、社会ではない。社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互いに知り合い信じあって、和合する団体のことである。まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。」

いかがでしょう。正しい社会をつくるには、真の智慧が輝いて、その光を浴びて心を一つにしなくてはいけないのです。

地球私達が住んでいる地球も、太陽という光がなかったら、ただの暗闇にすぎません。光のハタラキによって地上に色彩がもたらされるように、仏様はわれわれ人間に光をあてて心に色彩を与えて下さいました。

その光こそが仏法なのです。そして仏法の中でも法華経の教えこそ、人々の心を隅々まで明らかにする、この上ない尊い光なのです。

桜と光妙法の光に照らされて、私達は初めて己の姿を見ることができるのであり、また、社会に生きる他者の存在を知ることができるのです。妙法の光が届かなければ心は暗闇のままで、お互いの存在を認め合ったり、手を取り合って、喜びを分かち合うこともできず、虚しくひとりぼっちのままなのです。

お祖師様は「天晴れぬれば地明らかなり。法華を知るものは世法を得べきか。」と仰せで、法華経御題目の光によって、この世を明るく住みよくしていかなければならないとお教え下されています。

お互いがいただく御題目様には、人々の心の凹凸を平らにして、和合させるお力が備わっています。その大慈大悲を世の中にも弘めて、お互いによく知り合い、信じあって、助け合うことができる、そんな正法興隆の世にしていかなければいけないと思います。

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本尊の意義

世界で一番宗教団体の多い国はどこかというと、実は日本なのだそうです。しかもその数は国内だけで十八万という膨大な数に及ぶそうです。これだけの宗教団体があるのですから、信仰の対象となる本尊の種類も、同じように数多くあるはずです。

そう考えますと、はたしてどれが良いのか正しいのか、一般の人は判断する基準も分からないでしょうから、宗教というのは紛らわしくて怪しいモノだと、そんな風に感じてしまう人も多いのではないでしょうか。

以前、ある人がこんなことを言っていました。「宗教というのは結局のところ自分の心を満たす為にするのでしょう?だったら、いわば宗教は人生のアクセサリーのようなもの。自分の好みにあった宗教を選択して、それで満足できるなら何でも良いじゃない?」というのであります。

確かに今の時代は、宗教を選択するのも個人の自由意志によりますが、果たしてそれで平気なのでしょうか。多少は善意の残った宗派があるとしても、悪意に満ちた宗教も実際に多いわけで、むしろ、危ない思想を持った集団こそ、人を煽動することにたけているといえますから、やはりいくら信仰を選ぶのは自由といっても、宗教をアクセサリー程度に考えるのは、余りにも軽はずみな考え方といえそうです。

そもそも宗教というのは、私達の心や身体、自分の未来や家族の将来にまで、幅広く影響を及ぼす重大な選択と申せます。ですから、宗教の正邪というモノをよくわきまえて、正しい御本尊をお持ちしなかったら本当に大変なことであります。

その点、仏教の教えというのは理論が徹底していて、御本尊の正当性とか優位性などを立証する方法が昔からキチンと確立しているのでご紹介したいと思います。その法則というのは「本尊の三義」と申しまして、正しいご本尊とは、三つの意義を兼ね備えたモノでなければならないと教えられております。

一つには「根本尊崇」といって、本尊とは、誰もがあがめるにふさわしく、比べることが出来ないほど尊いモノでなければいけない。

二つには「本来尊重」といって、本尊とは、いつの時代においても変わらず、永遠に尊いモノでなければいけない。

三つには「本有尊形」といって、本尊とは、どこかの誰かが作った模造品ではなく、本から尊い姿を持ってなければいけない。

ご本尊これら三つの観点から考察して、世界中で最も尊いもの。時空を超えて永遠に尊いもの。あらゆる仏神の源であり元初から尊いもの。それは果たして何であろうかと、こういう検証をくりかえしていくと、全てに符合するご本尊というのが、法華経本門八品に説かれた上行所伝の御題目なのです。

当たり前のことですが、全ての宗教があやしいというわけではありません。正しい見識をもって仏教の教えに近づいてもらいたいと願っております。

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貧乏神と福の神

貧乏神というのは、各地方によって諸説あるようですが、だいたい囲炉裏にまつわる神様です。昔の囲炉裏はいわば家庭の台所、毎度の食事にも困って炭をおこすこともままならない、そんな家を好んで住みつくのが貧乏神です。貧乏神と聞いても、現代人にとっては単なる迷信でしょうと思われるかも知れませんが、実はそうとも言いきれません。現代でも貧乏神に取りつかれた人はたくさんいます。

貧乏神に取り憑かれた人の特徴として、とにかく「無い無い」を連呼するようです。お金がない、時間がない、余裕がない、解らない、出来ない、信じない、治らない、等々、いつも否定的なことばかりを言って不足の念にとらわれていると、貧乏神に取りつかれている一つの証拠なのです。

お互いに自らの言動をふりかえってみるといかがでしょう?ひょっとすると、自分でも気づかないうちに貧乏神に取り憑かれて、不平不満を訴えたり、周囲に愚痴をこぼしたり、自分の思い通りいかないことに腹を立て、マイナス思考に陥ってしまうことがあるものです。

だいたい私達みたいな凡人は、心の欲求に切りがありません。食欲ということ一つを取ってみても、美味しいものを食べた時の満足感も、数時間も経てばまたお腹が減ってきて元通り。ましてや、一度美味しいご飯を食べると、次はもっと美味しいものが食べたくなり、食事量もだんだん増えてしまう。

人間の欲というのは一事が万事その調子ですから、睡眠欲にしても財産欲にしても名誉欲にしても全て同じことなのです。我々の欲求が満たされるのはたった一瞬のことでしかないわけで、不足の念に取りつかれると、ナイナイ尽くめの不満ばかりがこみ上げてきます。

上を見て、不足不満をいっていたらキリがないのですから、ある程度のところで満足をして、ほどほどのところで感謝する。こんなにしてもらえて、自分のようなモノには勿体ない、有り難いことだと喜びをかみしめる。そうやって、自分が受けている恩恵とか恵みというモノに、一々感謝して、心から喜べる人には、満足の神様、福の神が舞い降りてきます。

ありがたいありがたいと口癖のように感謝して、おかげさまでおかげさまでと喜びに包まれている。これこそが正しい人間の真心ではないでしょうか?そういう感謝の念に包まれて生活している人を見ると、その尊いお心にふれて、周囲の者でさえも幸せな気持ちにさせていただけるものです。

お互いに、一日一日の生活の中に満足感や充実感を持つことが、福の神を呼び寄せる秘訣と心得させていただいて、心豊かに暮らしたいモノであります。

 

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初心に帰る

    今年から、本堂水屋(本堂裏にある水場。そこで御宝前にお供えする食物を用意したり、使用する仏具を洗ったりする場所)のご奉公をさせていただくことになりました。

 このご奉公は、教務さんになる前の見習い期間に覚えて身に付けなければならない、大切なご奉公の一つです。このご奉公ができなければ教務さんにはなれない、いわば登竜門というべきご奉公なのであります。

 具体的なご奉公内容を申し上げますと、御宝前裏の水屋や廊下の拭き掃除、本堂前方にある教務座周辺の掃除機かけ、水屋で使用した布巾やタオルの洗浄、水屋の水場シンク磨きなど。。色々とあります。また、お布巾やタオルの洗い方は全て手洗いで、布巾の種類によって洗う順番が決まっています。洗った布巾やタオルは物干しに掛けて、扇風機を当てて乾燥させます。水屋ご奉公は、様々なルールの中、させていただくのです。

 昨年は、もう一人教務見習いさんが入寺されたため、助手としてのご奉公に専念しておりました。

 その教務見習いさんも無事に得度され、今年から助手としてご奉公されるようになったため、水屋のご奉公は数名で毎日交代しながらさせていただくことになり、私もそのメンバーとなったのです。

 約9ヶ月ぶりのご奉公でしたので、はじめ少々不安がありましたが、意外と覚えているもので何とかご奉公させていただいております。

 布巾洗いや拭き掃除をしながら、教務見習いであった日々を思い出しました。当時は、毎日先輩方に叱られながら、一日中ご奉公させていただいておりました。寒い日も暑い日も、気持ちの乗らない時や体調が芳しくない時も、毎日水屋のご奉公はありました。どんなに辛い中でも絶対に負けないぞと必死になっていた自分が目に浮かんできました。

 入寺して約2年。現在の生活にも慣れ、多少心の余裕も出てきました。今こそ、当時の気持ちを思い起こして、御弘通ご奉公に精進しなければと思う今日この頃です。

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冬は、かならず春となる

 「世田谷別院掲示板 ~冬は、かならず春となる~」

私たちが住む日本では、のどかな春、汗だくの夏、さわやかな秋、凍えるような冬と、四季の移り変わりをはっきり見ることができます。

私たちの一生の間にも、春のように心が晴れ晴れした時もあれば、真冬の寒さのような厳しい状況に堪えていかなければならない時もあります。

しかし、冬にはすっかり葉を落としていた樹木も、春になればまた葉を付け花を咲かせるように、お互いの人生の中で冬のような時期が訪れても、その後には必ず花咲く春がやってきます。

お互い、どんな時でもお寺へお参りして、仏様に向かって御題目をお唱えし、つらいことも乗り越えて、大いに人生の花を咲かせてゆきましょう。

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受け止め上手になりましょう

先日の18日、関東で雪が降り世田谷別院にも5cm程雪が積もりました。

雪


朝看経前に若手教務で境内と正門の周囲の雪かきをしましたが、水分を多く含んだシャーベット状の雪で重さが粉雪の2、3倍に感じました。

おかげで日ごろの運動不足も重なり、次の日は腕や足腰が筋肉痛になりました。(笑)

 

雪かきをして感じたことは「寒いし、眠いし、早く雪が止んでくれ~温かい部屋に早く帰りたい!!」と最初は思っていましたが、次第に「雪国に住んでいる人は毎日雪との戦いで大変な苦労をされているのだから、少しだけでもその苦労が味わえることは決して悪いことではないのだ、むしろ貴重な経験ができて良かった」と思えてきたのです。

普段、テレビで大雪のニュースを観てもなかなか実感がわきませんが、雪かきをしたとたん、大雪の中、除雪作業をしている人の映像をみると反応が変わり、大変な苦労をなされているのだなあと思えるようになりました。

何事も経験が大事とよく諸先輩方から教わりますが、仰る通りで経験しないとわからないことが沢山あることをあらためて、今回の雪かきから学ばせていただきました。

御奉公もやはり経験が大切だと思います。お教化の御奉公でご苦労なされているご信者も沢山いらっしゃると思いますが、「先師聖人、先輩のご信者のご苦労と相通ずる経験をさせていただいているのだ、むしろありがたいことではないか」と感得していくいことが大切だと思います。

御奉公の上でも、日常生活の中でもさまざまな事が毎日起こるわけですが、受け止め方次第で自分にとってプラスに働くのか、それともマイナスに働くのかが変わってくると思います。御導師は「ご信者は明るく、前向きに」と御教導下されておりますから、何事も前向きに受け止めて、人生をより楽しく、明るく歩んでいきたいものです。

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被災地復興支援で感じたこと

昨年の話になりますが、十月二十、二十一日の二日間に亘り、修学塾の研修旅行でいわきに行って参りました。

この旅行は被災地の復興支援を目的としたものでした。まず最初に小名浜に向かい、海岸に御本尊をおまつりし、海に向かっての慰霊法要が営まれました。

あの海のどこかにまだ御遺体の見つかっていない方がいるのか、と思うと胸が詰まる思いでしたが、 「どうか苦しむことなく、一日も早く生まれ変わり、共に菩薩行を歩むことができますように」との願いを込めて、声の限りお看経に励ませていただきました。

その後は昼食をいただき、魚市場で買い物をしましたが、そこで働く従業員や漁師の方々の笑顔が実に明るくさわやかであるのが、印象的でした。

あの忌まわしい三月十一日以来、原発に関する風評を受け、近隣の海で採れた魚介類もすべて検査にかけなければ売れなくなり、そのため値段が今までの四倍に跳ね上がってしまったとのこと。そのため廉価で販売されている品物は千葉や茨城の港から運んできたものである、という話を伺い、我々にはうかがい知ることのできない苦労が、まだまだあるのだという事を改めて実感させらました。


それでもそうした逆境にめげることなく、元気に働かれる方々の様子に、却って勇気をいただきました。


夜は「スパリゾート・ハワイアンズ」で一泊しましたが、ここも大震災では大変な打撃を受け、一時は営業停止に追い込まれたとの事でした。ここで働くフラダンサーの中にも、地元地域が被害に遭い、引っ越しを余儀なくされた方もあったそうです。またファイアーダンサーの方も、せっかく雇用された矢先に、あの大災害が起こったため、一時は解雇を宣言されたが、その後再雇用となり、現在に至ったとのお話でした。

 この旅行は、復興支援が目的でしたが、私はむしろ反対に地元の方々から、勇気と希望という大きなお土産を頂いたように思います。「冬は必ず春となる」御弘通に生きる我々教務も、明るい展望を信じ、前進しなくてはならないと教えられた得難い旅でした。

寒さはまだまだ続きますが、このくらいで負けてはいられません。寒参詣も残りわずか。精一杯のお看経、御奉公に努め、今年一年の信心の土台作りに努めたいと思います。

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雪の中で思うこと

1月18日、未明より降り始めた雪によって、東京の交通網は大混乱となりました。18日の朝、お給仕前に表を見たところ、思わぬ積雪に大2年前の雪模様変驚きました。

 

 

 

 

 

 

その日は、地域外のご信者がおられる埼玉県の鶴ヶ島方面に向かう予定でした。降雪は朝のうちに雨に変わりましたので、雪解けを期待して10時に出発。ところが、首都高から関越自動車道にかけて通行止めとなっており、同時に一般道も激しく混雑していたため、予定よりも大幅に時間がかかってしまいました。

無事に御奉公をさせていただくことはできましたが、雪に弱い都会のもろさを実感しました。

また、ニュースなどで見ますと、首都圏各地の電車も大変混乱していたようでした。世田谷、渋谷近辺も三軒茶屋駅や下北沢駅でホームに入れない人が大勢いらっしゃったようです。

寒参詣(1月6日~2月4日6:00開門)の期間中、一度や二度降雪に見舞われることがあります。そのような中でも、開門よりお参詣をされている方の姿を拝見いたしますと、頭が下がる思いです。

もちろん、交通機関の影響でお参詣ができないという方もおられますが、そういった時には夕刻にお参詣をされる方もいらっしゃり、皆さん寒参詣を一生懸命勤められているのだなと、随喜の念がこみ上げてまいります。

今年の寒参詣、現在も期間中ですが、昨年11月に入信をされた方が毎日お参詣をされております。お母様から勧められて入信をされた方なのですが、自分が抱えている問題の解決をご祈願され、お参詣に勤められております。

お参詣をする、ご信心に励む、口唱に励むなど、思い切ってさせていただきますと、不思議とご利益を感得できるのが、当宗のご信心の有り難いところです。寒い中、朝早い中のお参詣は辛く厳しいものですが、そういったところをお参詣することで、たくさんの功徳を積むことができます。

寒参詣の期間はもちろん、普段からのお寺参詣に励ませていただきましょう。そして、今年に入ってまだお参詣をされていない方は、是非お寺お参詣をさせていただきましょう。

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ホームページ担当者新年挨拶

新春を迎えましてお喜びを申し上げます。猿

旧年中は乗泉寺ブログをご愛顧いただき真にありがとうございました。昨年はブログの更新など十分な御奉公ができず、ホームページをご覧になられた方々には、大変申し訳なく思っております。

本年は心機一転して、御奉公者一丸となってより良いホームページづくりに取り組んで参ります。どうぞ本年も乗泉寺ホームページを宜しく御願い申し上げます。

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終わりは、次の始め

 「世田谷別院掲示板⑪」

今年も、残すところわずかとなりました。けれども、平成27年は終わっても、その後すぐに28年へと、月日は続いていきます。そう考えれば、ちょうど今のような年末の時期は、一年間の終わりから翌年への架け橋になる時であるとも言えるでしょう。

ですから、今こそ、来年はこのようなことを心がけていこうと、「次の始め」への一歩を踏み出していくことが必要です。まずは、規則正しい生活習慣で、心身の健康状態を万全に整え、そして、また一年間無事に過ごすことができるよう、お寺の仏様にお願いを申し上げていきましょう。

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新本堂への思い②

10月31日(土)、新本堂に日蓮聖人の御尊像をお迎えした。

新本堂大御本尊の開眼(御本尊にお魂を入れる儀式)

新本堂大御本尊の開眼(御本尊にお魂を入れる儀式)

お教務さんのみで行われ、とてもおごそかな雰囲気。

御本尊御開眼後、お教務さんが隊列を組み、御尊像を8名の若手教務さんによって、慎重にお運びする。

御遷座の様子

隊列の周りには、この日を待ち望んでいたご信者さんで埋め尽くされた。

御遷座の様子

 

 

 

この大事な瞬間を撮影しようと必死なひと。

合掌して祈っているひと。

不安そうに見つめるひと。

 

 

 

色々な人の思いが飛び交う中、隊列は進む。

 

そして、新本堂へ….

御遷座の様子 御遷座の様子 御遷座の様子

日蓮聖人の御尊像を安置して、数名の教務さんによって、手際よくオカトウとお綿をかけた。

そして、住職川口日智上人のご唱導のもと、御尊像、門祖・開導聖人、十界諸尊の開眼が行われ、教務、信者ともにお題目口唱をさせていただく。

お看経

最後に、上から見た新本堂

新本堂新本堂

今回の新本堂設計に関わった者として、改めて素晴らしい御宝前が完成したと思います。

改修に関わった、教務師、ご信者さん、そして鹿島建設のみなさんに心より感謝申し上げます。

この御宝前がより荘厳となるよう精進して行く所存であります。

渋谷、代官山に来たら、是非ともお参詣下さい。
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新本堂への思い①

待ちにまった、乗泉寺新本堂が完成し、以前よりもさらに荘厳となった御宝前が姿を現した。

振り返ってみると、この本堂が最初に建立されたのが、昭和39年。今から、51年前のこと。当時、乗泉寺ご住職で、佛立第15世講有田中日晨上人(私の師匠)は、21世紀のご弘通にふさわしい寺院になるようにと、一流の建築家や職人に依頼して、本堂を完成させた。

しかし、21世紀を迎えようとしたその矢先、ある一部からの指示のもと、御宝前が作り変えられてしまった。日晨上人の思いが詰まった御宝前の姿が消えてしまい、私は落胆し途方にくれた。末弟として、師匠の思いが込められた御宝前をいつか取り戻すことが悲願であった。

今回の本堂改修にて、以前と同じような本堂(まだ、イスがなく、正座してお看経した時代)が作成出来たらの一念でメンバーに入れていただき、色々とご面倒をおかけした。工事関係者に本当に感謝している。

日晨上人が荘厳なさっていた佛立第3世講有日随上人、ご染筆の御本尊や御尊像、十界の諸尊などがお出ましなり、今は感無量である。

是非とも、荘厳になった御宝前を見ていただきたいと思う。

新御法前

                  新御宝前

佛立第三世講有日随上人が御染筆された、力強い堂々たる「南無妙法蓮華経」の大御本尊を中心に、5枚重ねのお綿をかけた存在感のある高祖日蓮大聖人の御尊像(御尊像の下は免震構造となっている)、右脇のお厨子には門祖日隆聖人、左脇のお厨子には開導日扇聖人のお像が安置されている。

門祖日隆聖人

門祖日隆聖人

開導日扇聖人

開導日扇聖人

十界の諸尊(右側のお厨子)

十界の諸尊(右端のお厨子)

乗泉寺歴代住職のお位牌・写真(右端お厨子)

乗泉寺歴代住職のお位牌・写真(左端お厨子)

本堂改修特別御有志者の氏名が刻まれたプレートが収められている。

人天蓋(にんてんがい)

人天蓋(にんてんがい)

日蓮聖人の頭にかけられたお綿の形をまねて作成された。

決して、恐竜の骨ではありません(笑)

吊灯籠(つりどうろう)

吊灯籠(つりどうろう)

ガラスと木のブリック

ガラスと木のブリック

御宝前後ろに積み重ねられた、ガラスブリックと木のブリック。

ブリック設置

ブリック設置

ガラス・木のブッリクをはめる前

ブリック設置

ブリック設置

  こんな風にはめられ、それが何段も積み重なっている。

 

数ヶ月前までは….

改修工事

改修工事

改修工事

改修工事

改修工事

改修工事

御本尊や御尊像を支える鉄骨

足場

足場

次回は、御遷座式の様子を紹介します。

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用心(気をつける)ということ

何事にも用心(気をつける)ということが、非常に大切と感じます。

例えば、食事で野菜を先に食べるか、後にするかで、体につく脂肪の量が違うといいます。

ですから、ダイエットしている方は、そういう用心(気をつける)ことが大切です。

先のスケートのカナダ杯で、羽生結弦選手のコメントに感動しました。

ショートプログラムの出来が、予想に反して6位の出足でした。

「悪い処は分かっています。良い処も分かっていますので、明日のフリーではその悪い処を修正してのぞみます」と語っておられました。

そして、フリーでは前日の悪い処を見事にカバーし、総合2位、銀メダルを得ました。

世界で活躍する人の心得は、さすがに一流と言わせるものでした。

だからこそ、いつの試合でも私達に感動を残してくださるのですね。

がむしゃらに何でもやればいいという事ではないのですね。

佛様の教えに、因果の道理があります。

原因なくして結果は出ない。

何でもやればいいという事ではなく、やはりその結果の良し悪しは、用心(気をつける)をしながら進んでいかねば、良い結果は出ないのです。

 御教歌

 こゝろして ひけばこそなれ 露深き

           秋の山田に かくる鳴子も

 お互い用心(気をつける)しながら、日々の生活を営んでいきましょう。

 

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御尊像はなぜ黒い

当宗の御尊像(御祖師様のお姿をかたどった像)は黒い色をしています。なぜ黒なのか。これには二つの説があります。

まず一つは、ロウソクのススや御線香の煙で黒くなった、古色ゆかしいお姿を有難いものと頂き、そのまま御安置申し上げるという説。

もう一つは、歌舞伎で舞台を支える黒子と同じという説です。つまり昼夜御本尊のおそばに寄り添い、御尊像と一体になって我らを守護し給う。それゆえに、極彩色でなく、黒色なのだという説です。

私共は願い事があれば、叶えてもらうのが当然のように思いがちです。しかし夜昼となく、61年の御生涯を御弘通に捧げられた御祖師様の御苦労をどれほど理解しているでしょうか。

ともすれば目立ったことだけをして、良い事をしたつもりになっている私共です。陰日向なく、地味な事でも、目立たぬ所でも嫌がらず御奉公させていただく気持ち。たとえ一人の為にも法を説く心を忘れてはなりません。

来月7・8日は当山でおいて高祖会を奉修致します。

また11月は御尊像御綿かけの御奉公月でもあります。

御祖師様の御恩に報いるため、心を込めて御奉公させていただきましょう。

 

※11月11日は小松原御法難の日です。

文永元年(1264)のこの日、鎌倉から故郷である安房に帰って来られていたお祖師様は有力信者である工藤吉隆公宅での御講席の帰り道、小松原(現在の鴨川シーワールド近く)において、この地の地頭であり念仏宗であった東条景信ひきいる軍勢に襲われました。

「いるやはふるあめのごとし うつたちはいなづまのごとし」と御妙判にある通り、想像を絶する惨状を呈したこの大難により、工藤氏と御弟子の鏡忍坊は殉死を遂げられました。

そして、お祖師様ご自身も左腕を折られ、眉間に傷を覆われました。

これをご覧になった一人の御婦人が、寒さで御傷が痛まないようにとの志から、お祖師様のおつむに御綿をかけられました。

毎年この時期にさせていただく御綿かけの御奉公は、この事に由来しています。
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