徳を積もう

樹木つい先日、あるご信者さんの年忌法要のご奉公をさせていただきました。そのご供養のお席として、大変趣のある古風な割烹料理店をご用意していただいたのですが、非常に身に余るお料理の数々を頂戴し、却って申し訳なく終始恐縮をしておりました。


そのお店は明治17年創業で店構えや内装、その他お皿やお箸など小物に至るまで大変なこだわりと雰囲気を漂わせ、料理の味もさることながら、女将(4代目)と若女将(5代目)の接客や受け答えの如才なさに一同で感心し私自身も多くのことを学ばせていただきました。

特に、私と同世代であろう若女将さんの接客は見事の一言に尽きるものでした。その背景には、日頃の弛まない修練があることは間違いないでしょうが、努力を感じさせない自然な身のこなしや含蓄のある品格には、どこか彼女自身の力だけではない「何か」を感じさせました。

その若女将さんが仰っていた「ご先祖様のお蔭で」、「多くの方のお力添えを頂いて」という言葉を耳にして「ハッ!」といたしました。彼女からにじみ出ている風格や態度は、まさにご先祖から受け継く「徳」を背負っている、商売人としての「徳」が備わっているに違いないと素人ながらに感銘を受けました。

では、この「徳」とはなんぞや!ということになります。運気や才能とも違いますし、いざ考えると何となくは分かるような、でも実際は分からないようなという掴み所のないモノですが、確かにその人の身を飾り備わっているモノであろうかと思います。

辞書で調べてみますと①「生まれつき備わった能力や資質」②「精神の修養によってその身に得たすぐれた品格」などの意味があります。

このことから「徳」とは、生まれもった資質だけではなく、私たちが生活をする日常の中でも身に付け、高めることが出来る性質があると言えます。

松下電器創業者の松下幸之助氏は85歳の時、松下政経塾の塾生との対談で「徳について」次のように仰せです。

「徳を高めることは、私にとって今一番必要なことである。私が望むものは、技術でもなければ商売の手法でもなく徳の高い人間になることである。徳というものは漠然としているけれど、人間にとってこれが何よりも一番の宝である。技術も大事であるし、学問も大事であるが、徳を持たずしては学問も技術も成り立たない。徳は人間にとって一番に尊いものであるが、徳は自分で教えることも人から習うことも出来ないものである。」

何やら雲を掴むような話ですが、松下幸之助氏ご自身の様々なご経験から「徳の尊さ・重要性」を説かれている反面、自力で「徳」を身に付けることの難しさを述べておられます。

確かにどれほど技術や経済力、知力や体力が優れていたとしても、それが仕事の成功に直結するとは言えないのが現実です。即ち、この「徳」がなければ、何事に於いても成功を収めることは出来ないとも言い換えることができるのです。

生まれながら素晴らしい才能に恵まれていることは確かに大変結構なことですが、素晴らしい人とのご縁に恵まれること、人から頼られ重宝されること、自然と人が集まってくること、これらはその人の身に備わった「徳」の為せる業であります。

この「徳」は、日常生活の鍛錬や心掛けなどによって磨き高めることも出来るのでしょうが、松下幸之助氏が言うように、では「どうすれば正しく道を誤らずに「徳」を身に付けていけるのか」を端的に説明出来ない性質があります。

だからこそ、私たちは佛様がお残し下さった「徳」を積む為の直道、日々の佛道修行を徒疎かにしては勿体無いことであると言えるのではないでしょうか。

当然ながら、一朝一夕で身に付くような類いのモノではありません。佛様のみ教えに従って一日一日の佛道修行を謙虚に積み重ね、それこそ長い年月を掛けて自然と身に添っていくモノであろうかと思います。

まだまだ我が強く未熟な私ですが、僅かばかりでも他人様のお役に立てさせていただけるような僧侶としての「徳」が頂戴できますように、身体や時間を惜しまず正直に日々の信行を励ませていただきたいと願っております。

そんな「徳」についてのお話です。

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THE日本人

私たち日本人は、海外からどのような民族であると思われているのでしょうか?

あるアンケートの代表的な回答には…
①礼儀正しくきちんと挨拶をする。
②キレイ好きで清潔感がある。
③仕事が丁寧で的確。
④時間や約束を守る。
⑤貯金が好きで倹約意識が高い。
など大変好意的に捉えられている点も多くあるようです。

反面では…
⑥自己主張や自己表現が苦手(奥ゆかしいとも言いたいところですが…)
⑦危機管理が甘い(それだけ治安が安全な国ということなんでしょうが…)
⑧過度に集団行動を好む(周囲との和を尊んでいるんです…)
などなど手厳しいご意見もあります。

特に⑧「過度に集団行動を好む」という点について、日本人の民族性を示しているような興味深い譬え話(エスニックジョーク)がございます。

◎様々な民族の人が乗った豪華客船が、海の上で沈没しそうになりました。各国の乗客を、それぞれ誘導し海へ飛び込ませる為には、どのような声をかければ良いのか、国別に紹介致します。

ロシア人には「海の上にウォッカの瓶が流れていますよ!」
アメリカ人には「今飛び込めば貴方はヒーローになれるでしょう!」
ドイツ人には「規則ですから飛び込んで下さい!」
イギリス人には「こういう時にこそ、紳士は海に飛び込むものです!」
イタリア人には「海で絶世の美女が泳いでますよ!」
など、なるほどな~!と国民性を上手に捉えたものばかりです。

それでは、私たち日本人には、どのような言葉を掛ければ良いと海外で思われているのでしょうか?日本人には「もう、みんな飛び込んでいますよ!」とのことでした。

うむむ!確かに「みんな~やっている。」、「みんな~やっていない。」など、周囲をひとくくりにしてしまう表現を、私たち日本人は大変好み日常生活の中でごくごく自然に多用しているように思います。

例えば、商品購入を迷っている時に「他の皆様にも大変ご好評頂いていますよ」と言われると、何故か安心して商品を購入しまった経験はなかったでしょうか?

お店を探す時やモノを選ぶ時も、周囲の「口コミ」や「評価」を過剰に気にしていることはなかったでしょうか?

「全米が泣いた!」というキャッチフレーズを聞くと何故か無性に胸が熱くなる人はいませんでしょうか?

余談ですが、私も小学生の頃、両親にモノをねだる時は、決まって「クラスのみんなが持っているもん!」だったように思います。まあ、実際にはクラスメートの2~3人も持っていないんで、「みんなって誰?名前を挙げてごらん!」と言われ、返答に窮する経験を何度も繰り返しておりました(笑)

古くから、日本文化を揶揄する表現の一つに「付和雷同」という譬えが用いられます。付和雷同=「自分自身にしっかりした意見がなく、他人の意見や行動に軽々しく同調すること」という意味ですが、集団行動が人々の意識に組み込まれてる日本では、物事の善悪、正非はそっちのけで、「みんな」という見えない他人に同調することを良しとしてしまう暗黙の空気がございます。

極端な譬えかも知れませんが、「みんなやっている」からという根拠のない甘い言葉に誘われて、軽い気持ちで、麻薬など犯罪に手を染めてしまうようなケースも少なくないと思われます。

私たちが暮らす日本には、数多くの世界に誇るべき文化があります。非常に調和を大切にする文化ですから、周囲と同調出来ることは、仕事の効率を高めたり、多くの人々と価値観を共有出来ることなど決して悪いことばかりではありません。

しかしながら「みんなやっているから」(やった方が良いのかな。。)、「みんなやっていないから」(やらなくても大丈夫かも。。)という集団の心理に流されて、易きに流されたり、物事の真実から目を背け、本質を曲げてしまうことがあっては非常に勿体無いことだと思います。

私たちの日常生活の中で何気なく溢れる、この「みんなが…」という言葉を、もっと注意深く、慎重に受け止めてみては如何でしょうか?というちょっとした提言です。

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大震災から3年経って

東日本大震災から今年で3年が経過致しました。震災直後にビートたけし氏が『週刊ポスト』誌上で語った『「被災地に笑いを」なんて戯れ言だ』というインタビュー記事は、当時大きな反響を呼びました。

先日、発売された著書『ヒンシュクの達人』(小学館新書)38頁にも収録されておりますので、抜粋してご紹介させて頂きます。

悲しみは本来「個人的なもの」

常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。

だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えているんだから。

(中略)

逆を云えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりをしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を感じて初めて心の底からその重さが分かるんだよ。

以上、著書を拝見させて頂き、日本人の死に対する「向き合い方」をそのまま突きつけられたようなビートたけし氏の観点に私自身大変なショックを覚えました。

当時は「絆」や「助け合い」、「がんばろう」や「心を一つに」などなど、そんな耳障りの良いキャッチフレーズが至る所に溢れていました。もちろん、これらを綺麗事であると一蹴することは出来ません。

サザンカ

東日本大震災が未曾有の大惨事であったことは誰にでも理解出来ることだったと思います。

ただし当事者でないモノにとっては、ひょっとすると「死」とはあくまで他人事で、客観的なモノであったかも知れません。

東日本大震災に直面してもなお、私たち日本人の「死」に対する受け止め方は本当に変わったと言えるでしょうか。例えば連日テレビや新聞などで報道されている悲しい事件や事故をどのように受け止め、向き合っているでしょうか

私自身もどこかで「人の死」を客観的に傍観をしているような自分の心を深く反省をしなければならないと思いました。

高祖日蓮大士は御義口伝の中に「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。」と仰せでございます。

全ての人々の苦しみを心より嘆かれた御祖師様が現代社会にましませば一体どのような御奉公を遊ばされたであろうかと心が痛む思いです。

決して他人事で終わらせてはいけないことが世の中には溢れております。ビートたけし氏の文章を通して、今一度「死」に対する向き合い方、受け止め方を改良して、様々な悲しみや悩み苦しみを抱える方々の心に寄り添って、及ばないながらも一歩一歩ご信心御奉公を励ませて頂きたいと思いました。

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ハチドリのひとしずく

「 ハチドリのひとしずく」という話を知っていますか?

南米のアンデス地方に伝わる短いお話です。今、この短い話に世代を超えた多くの人が感銘を受け、ジワジワと共感の輪が広がっています。

森が燃えていました
森の生きものたちはわれ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」 

出典:「 ハチドリのひとしずく 」 辻 信一監修 光文社刊 2005年

このお話に共感した人が誰かに伝え、その人がまた他の人に伝えるというように、1人ひとりがハチドリとなり、そのひとしずくを少しずつ落としながら、ハチドリ「クリキンディ」の話は徐々にその輪を広げ、静かなブームとなっています。

温暖化や酸性雨、砂漠化など悪化する一方の様々な環境問題、ますます深刻になる戦争や紛争、飢餓や貧困といった人類の課題などなど、どの問題も「早くなんとかしなければならない」と、誰もが感じていることばかり。しかし、私たちに突きつけられる現実的な問題はあまりにも大きく「それでは自分に何が出来るのか?」と無力感もこみ上げてきます。 

小さな小さなハチドリが「私に出来ることをしているだけ」と、黙々と一滴を運ぶ姿は、そんな無力感を感じる心に、「何ができるかわからないけど、まずは私に出来ることをしよう」という勇気を与えてくれます。

周りにいる動物たちのようにクマドリが運ぶ小さな「一滴のしずく」を批判や嘲笑、傍観をするのは非常に簡単なことかも知れません。

ただし、どのような物事を始める時にも、はじめの一歩とそれを続ける勇気と努力が必要となるのではないでしょうか。

本堂祭壇1平成26年3月11日で東日本大震災より丁度3年目を迎えました。

昨日乗泉寺でも朝の勤行に併修して東日本大震災犠牲者の追善回向をさせていただきました。

また、終日祭壇を設置して、お参詣された御信者さん方に御焼香をして頂きました。

「微力」と「無力」とは決して同じ意味ではありません。私たち一人ひとりの「ハチドリのひとしずく」とは一体何か、どんな些細なことであっても日々出来ることから行動に移して行きたいものであります。

御焼香本堂祭壇2

 

 

 

 

 

 

 

 

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交通安全について

警察自動車は私たちの生活を送る上で、決して切り離すことが出来ない身近で便利な文明の利器ですが、使い方を誤ると悲惨な事故を巻き起こす凶器となったり、騒音や振動などによって沿道の住民に迷惑を掛けたり、大きな被害をもたらす原因となり得ます。

事故現場更新の際に受けた講習では、平成24年の交通事故による死亡者数の統計がテーマとなりました。平成24年は全国で換算致しますと一年間に4411人(平成23年比-252名)もの尊い命が交通事故でお亡くなりになられました。


これは一日に換算をしますと、日本国内で毎日約12名もの命が交通事故でお亡くなりになっていることになります。
負傷者数は全国で825,396名で、一日に換算をしますとなんと毎日2,261名が交通事故で負傷をしている計算になります。

 

この数字は単純計算とは言え、簡単には受け流すことが出来ないように思います。と言いますのは、誰であっても事故に直面するまさにその時まで、自分が事故をする、事故で死亡する、怪我をするなどとは思っていないハズでありますし、まして交通法規を厳しく守るように警告する標識や看板は至る所に存在致します。

そもそも常識的、道徳的に考えましても交通ルールやマナーを守ることの大事は誰であってもご存じであろうかと思います。それでも毎日のように交通事故が発生し続けているのは何故なのでしょうか。

免許更新の講習を受けて、交通事故の発生件数に大変ショックを受けました。そんな私自身を振り返ってみますと、自動車を運転しながらついスピードを出してしまったり、慣れてよそ見をしてしまったりと油断をしてしまうことが多々あったように思います。

日頃から、分かっている「つもり」、確認した「つもり」が如何に自分の身の回りに溢れているのか、十分注意をしなくてはならないと感じました。

私たちは「無常」の世の中で暮らしております。当たり前の日常が、明日、明後日の当たり前ではないと、理屈の上では分かっているつもりですが、ついつい自分や家族は別のような錯覚をしてしまうことがあります。

ちょっとの油断で事故を起こしてしまったとしても、悲しい事に言い訳や弁解が通じないのが現実だと思います。決して他人事ではないと自分自身を誡めて、今後はより一層交通法規遵守を心掛けて参ります。

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仏教は「縁」という考え方を基本にしています。皆様は普段この「縁」というものをどのように感じておられるでしょうか。

よく因果という言葉を耳にされることがあると思います。これは仏教用語で原因と結果ということです。国語辞書には「全ての物事には、前の行いによって、後の運命が決まる事。特に、前世に犯した悪い行いの報いとして顕れる不幸な事」とあるように、一般的にはマイナス的な事が起こる際によく使われるようです。

しかし一般的には余り知られていませんが、仏教ではもっと詳しく因果の訳を解説されています。簡単にまとめますと、

因・・・モノのはじめ、原因の事。
縁・・・原因に触れて、結果を生じさせる間接的な働き。
果・・・「縁」によって現れる具体的なカタチ、結果の事。
報・・・結果から得られる喜びや悲しみ、次への因となる。

例えば因を「種をまく」果を「花が咲く」と捉えるとわかり易いと思います。全ての種は芽がが出て、花が咲くかと申しますとそうとは限りません。

たんぽぽ
たとえば、タンポポの場合は種が風に流されて他の土地で咲くモノです。

しかし、種がチャンと土の上に落ちるとは限りません。また種が地面の上に運ばれたとしても、土壌の善し悪しという問題もあったりします。

花を咲かせるという結果の前には、様々な条件や巡り合わせ、つまり「縁」が働くのであり、その「縁」によって美しい花が咲いたり、咲かなかったりします。

 

私たちの社会生活においても、「私はこんなにまじめに、まっとうに生きているのに、なんで不幸なんだ。」、「なんで彼はあんな適当に生きているのに、いつも良いことばかり起こるんだ」と思ってしまいがちですが、先の「因縁果報」の法則に従えば、必ずそこにいたるまでには、なにかしらの縁が働いていたに違いありません。

ですから、私達は人間関係という「縁」を意識して、なおかつ、自ら積極的に善い縁にふれていくよう心掛けることが大切です。中でも、最高のご縁が御題目なのですから、その御題目を中心に生活をしていると、全ての縁も良好になっていくモノです。

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比べるよりも真似てみよう

「隣りの芝生は青い」という諺があります。これは「他人のものは何でも良く見えてしまう」という意味ですが、私共はつい、自分自身と他人を比べて、何かと相手の境遇が良く思えてしまうものです。

また悲しいことに我々人間の心には、人の良い点を素直には喜べない所もありますから、「比べること」は、頭ではつまらないこと、意味のないことだと、わかっているつもりでも、心では相手の境遇を羨んでいることが多いものです。

そして、この「羨む心」は場合によっては、嫉妬や怒りなどの心に変化することもあり、人間関係や社会生活に於いて様々な弊害を生み出していると思えるのです。

さて、「ガン保険」を初めて日本に紹介され、一代で日本第一位の外資系、生命保険会社へと成長をさせた、現アフラック最高顧問、大竹美喜(よしき)氏は、「仕事で本当に大切にしたいこと」という著書の一節で、次のように述べておられます。

「自分の夢を実現させた人の話を聞くと、『羨ましいなあ』と思うかも知れませんが、人の成功をいくら羨んでも、あなたが成功しなければ何も意味はありません。ましてや、人を羨んだり、嫉妬したり、足を引っ張ろうとする行為は自分の価値を低くします。自分の心を貧しくするだけです。

もし、うまくやり遂げた人と対面する機会があったなら、その人の成功を讃え、どんどん質問してみればいいのです。『どのようにして成功したのですか?』、『うまくいかなかった時はどうしたのですか?』と。学ぼうとすれば、幾らでも学べるはずです。あなたが問題を抱えているのなら、『こういう時はどうすればよいか』と具体的に尋ねてみても良いでしょう。尊敬の念を持って尋ねれば、必ず役に立つアドバイスを与えてくれるはずです。

人を羨むというのは、悔しさの裏返しです。『どうして自分には出来ないのか、何であの人ばかり』という気持ちが心の中にある証拠です。そういう時は、『出来ない自分』を認めてしまえば良いのです。認めた上で、どうすれば『出来る自分』になるのかを考えてみる。そして、『出来る自分』になる為の参考として、成功した人の話に耳を傾けるのです。

本来、人と自分を比べることには、あまり意味はありません。しかし役に立つ考え方があれば、積極的に取り入れ、反対に自分には必要がないと思うことはまねをしなくても良い。成功体験は貴重な情報ですが、そこから何を学ぶのか、情報の取捨選択が大切です。

人の成功を羨むのではなく、『あの人は成功したのか。良かった。では今度は、自分が同じように成功してみせるぞ』という前向きな姿勢を持って、自分の道を切り開いて欲しいと思います。」と大竹氏は述べておられます。

この一節からも「他人の成功を羨む心」を切り替えて、「相手の成功から何を学ぶことが出来るのか」という前向きな受け取り方の大事を学ぶことができると思います。

私共は、優雅に泳ぐ白鳥のスガタには、目を奪われますが、その白鳥が水面下で激しく足を動かしているという中々表に出ない事実を知ろうとはしません。ですから、相手の華やかな成功には心を奪われますが、余り人の目つかない相手の苦労や努力、創意工夫などに対して関心を示すことは少ないかも知れません。

「我以外、皆我師也」という謙虚な心で、周囲を見渡すことが出来れば、同じ出来事であっても日々大きな発見があるハズです。

人と自分を比べる心はどうしても起きてくるものです。しかし、そうした心が起きたときこそ、人の良い所を素直に学び取っていく心持ちに切り替えていく方が、はるかに意味があることではないでしょうか。

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ホスピタリティとは?

至高のホスピタリティ先日発売した「リッツカールトン 至高のホスピタリティ」(角川書店 高野登著)を読ませて頂きました。

著書の高野さんは長年にわたるホテルマンとして経験、特にリッツカールトン(ホテル)で培われた約20年の経験から、「ホスピタリティ」=「おもてなしの心、おもてなしの在り方」を研究されているお方です。

高野さんいわく「ホスピタリティ」とは、「相手の心に自分の心を寄り添わせて、相手の立場になって対話をする姿勢そのもの」だとされております。

高野さんがそのように思い立ったのは、ホテルマンとして、さまざまなお客様との出会いがあったからだそうです。 

その一つに、高野さんは日頃よりおもてなしとして、お客様に名刺をお渡ししておりましたが、ある時、目の不自由な方に名刺をお渡しした所、その方から「もう二度と高野さんの名刺を見つけられないよ」と言われ愕然とされます。

常々ホスピタリティを語っている人間が、目の前の相手の立場にたって考えていなかったということに、初めて気づき、名刺を点字入りのもの一新されたというのです。「誰々のために」という発想そのものが、実はものすごく上から目線だということに気づかれたのでした。

そして、「人のために」、「お客様のために」という言葉を全部なくし、「人の立場にたって」、「お客様の立場にたって」という言葉の総入れ替えをされました。

私達もよく「人の為」、「誰かの為」という言葉の使い方をしてしまいますが、確かに「~の為」という言葉の奥には、「自分のモノサシ、価値観」を無意識の内に、相手へ当てはめてしまっているような気がします。

ホスピタリティの奥の深さを感じると共に、日常の御奉公や普段の生活に積極的に活かしていかなくてはと思いました。

相手にご信心の素晴らしさ、御題目の有り難さをいかにお伝えさせていただくべきか。「相手の言葉、立場、状況」には耳を傾けているつもりで、お折伏が「一人よがり」になっていないか。

信心改良をオススメさせていただく時は、二重にも三重にも相手に対する配慮、思いやりの心を特に大切にしたいと思います。 

その他本書では、色々な会社の特筆すべきサービスの事例などを、数多くの体験談を用いて分かりやすくご紹介下さっております。非常に読みやすい新書ですのでお時間のある方は是非ともご覧下さい。

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伝え方が9割

本年発売された書籍の中で「伝え方が9割」という本があります。著書の佐々木圭一氏は大手広告代理店勤務のコピーライター、作詞家、大学の非常勤講師などに従事している方で、言葉の扱いの最前線で活躍をされているお方です。 

内容は、非常にシンプルでありながら、言葉の表現方法やテクニックなどが体系化されており、大変勉強になりました。

本書では、同じことを人へ伝える場合でも、相手に「YES」と言って貰えるか、「NO」と言われるのか、その別れ目を具体的な事例も用いて示されております。本当に何気ないことですが、目から鱗がポロポロと参考になりますので、以下抜粋して紹介させて頂きます。

伝え方が9割まず「NO」を「YES」に変える3つのステップとして、

①「自分の頭の中をそのままコトバにしない」
②「相手の頭の中を想像する」
③「相手のメリットと一致するお願いを作る」
ということです。 

確かに自分の言いたいことだけを伝えても、結構一人よがりになっていることが良くあります。「何でわかってくれないの?」と頭を抱えるよりは、相手の立場になって、相手のメリットと一致するような伝え方が出来れば、同じことを伝える時でも「YES」を引き出し易くなるでしょう。 

そして、分かりやすかったのが「YES」に変える「7つに切り口」でした。 

1、「相手の好きなこと」…相手が好むことから考え、メッセージを作る。
お店で並んで待つか迷っている相手に、「出来たてをご用意いたします。4分ほどお待ちいただけますか?」と言えば、ただ「少々お待ち下さい」と伝えるよりも、相手に対して「出来たて」というメリットを伝えており、「YES」と言われ易いということです。

2、「嫌いなこと回避」… 相手が避けたいことや嫌いなことから考えて伝える。
ただ「芝生に入らないで」と言うのではなく、「芝生に入ると農薬の臭いが付着します」と伝えれば、相手がデメリットをイメージしやすくなります。相手が避けたいことを伝えて、「YES」を引き出すということです。

3、「選択の自由」…人は誰でも自分で選択したいもの。
どなたも経験があるはずですが、私たちは基本的に決断が非常に苦手です。ここで「AとBどちら良いですか?」というように、比較する対象を設け、選択肢を提示すると、「NO」と断られにくいということです。 

4、「認められたい欲」…人には誰かに自分を認められたいという欲がある。
用件を伝える時には、相手の立場や能力を尊重すると「YES」という返事が来やすいということです。誰でも自分が褒められた後に、ふとお願いをされると、少々面倒なことでも断りにくいところがありますよね(笑) 

5、「あなた限定」…人は「あなた限定」「最後の一つ」に弱い。
限定品と言われるとちょっと気になるものです。これを言葉にも応用するということです。例えば「他の方は兎も角、あなただけには是非とも来て欲しいんです。」極端な譬えかも知れませんが、確かに「あなただけ~」と言われてしまうと行こうかなと考えてしまいます。 

6、「チームワーク化」…相手が面倒くさい、やる必要性があまり感じられないと思っている時に、この「チームワーク化」は非常に効果があるということです。
「あまり勉強したくないな~」と考えている時に、「一緒に勉強しようよ」と声を掛けられると、勉強したくなかった人も、ひょっとすると勉強したくなるかも知れません。ただし声を掛ける人は自分も動くことが大前提です。 

7、「感謝」…人は「ありがとう」と感謝されると、「NO」とは言いにくいもの。
「いつもありがとう。これからもよろしく」などと言われてから、頼み事をされると、何となく断りにくいですね。 

その他、「強いコトバを作る5つの技術」という項目もあります。本書は具体例も沢山出てますから、興味のある方は是非とも拝見なさってみて下さいませ。 

私は仏様のみ教えを「お伝えする」立場にありますが、現在、この「伝える」ことの難しさと日々格闘しております。 特に宗教不信の時代と呼ばれて久しい現代ですから、教務には相手がよりイメージしやすい言葉や表現方法が求められております。

そうでなくても生来、思っていることや頭に浮かんだことをすぐ口にしてしまいやすい私は、「相手の立場に立って」、「相手が理解しやすい」ように言葉を使えていたのか、伝えられていたのか反省ばかりです。また、「Aさんには理解出来てもBさんにはチンプンカンプンだった」なんてことにも多々直面致します(>_<) 

勿論、小手先やテクニックを重視する訳ではありませんが、本書を読んで「伝え方」ということをより意識して、今後は一層言葉の使い方を大切にして行きたいと思いました。

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認知の歪みpart2

15日の続き「認知の歪み」の残り5つをご紹介させて頂きます。 

⑥誇大視と過小評価
この思考パターンに陥ると、双眼鏡を覗いた時のように、自分の短所や失敗を必要以上に大きくに捉えて、逆に長所や成功した時であっても、あまり自分を評価することが出来なくなってしまいます。

例えば、「小さなミス」を犯してしまったりすると、「なんてことだ!!これで自分の人生は台無しだ!!」と考えてしまい、すぐに一番悪い結果へ結びつけてしまうことです。客観的にみると何でもないことが、自分のことになると必要以上に大きく捉えてしまいます。 

⑦感情的決めつけ
自分の感情を根拠に、モノゴトを決め付けてしまう思考パターンです。私たちは、時に自分の感情が現実世界と直接結びついているような錯覚をしてしまいます。 

例えば「私は不安を感じている。だからこれは上手くはいかないはずだ。」「私はあの人が苦手だ。だから間違いなく私のことも嫌いだろう。」と答えをすぐに決め付けてしまうことがあります。 

私たちの心ほど不安定なモノはなく、「不安」「怒り」「悲しみ」「憎しみ」といった感情の変化で、目の前の景色も変わるのですから、飛躍的な決めつけをしないで現実の姿を見失わないよう注意しましょう。 

⑧すべき思考
何かやろうとする時に「~すべき]「~すべきでない」と考えることです。常に「~すべき」「~すべきでない」と考えると、極端な場合その基準に合わせようとして、なにかと自分自身を追い詰めてしまうことになります。勿論、自分自身を正しく律することでプラスに働くことは多くあります。 

しかし、一度大きな失敗をしたり、思い通りにならなかった場合は、出来なかった自分に対して大きな罪悪感が生まれてしまいます。 

特にこの「すべき思考」を他人や社会へ向けると、「親として~すべきでない」「◯◯(職業)だから~すべき」「人間として~すべきでない」「一般的に~すべき」など、こうあるべきだ、あるべきでないという縛りによって、常にイライラとした気持ちを抱えてしまうことになります。 

誰であっても完璧な人は存在しません。自分は勿論、人の失敗や過ちに対して寛容になりましょう。 

⑨レッテル貼り
日常の中でちょっとしたミスや失敗をした時に「自分は負け犬だ!」「私は本当に意気地なしだ!」などと自分自身にネガティブな「レッテル」を貼ってしまうことです。 

私たちはその場の感情に流されて、たった一度でも自分にマイナスなレッテル貼ってしまうと、以後こうしたマイナスのレッテルは中々剥がれることはありません。誰よりも自分を理解出来るのは自分だけですから、自分で自分を傷付けることがないように気をつけましょう。 

⑩自己関連づけ
自分に責任がないような場合でも、原因を自分に求めてしまうことです。「私のせいで雨が降ってしまった」というような極論も含まれます。何か良くないことが起こった場合、それを自分だけの責任と考えるよりは、どうすれば今直面している問題を解決出来るのだろうかと考えた方がより健全で大切なことでしょう。 

「自己関連づけ」の思考パターンを繰り返すと、結果として物事を客観的に判断出来なくなってしまいます。

以上、私たちの考え方のクセである「認知の歪み」として10種類のパターンをご紹介させて頂きました。 

お互いに「今」自分が直面をしている様々な諸問題を客観的に振り返ってみると、自分自身が「認知の歪み」を生み出してしまったり、いたづらに拡げてしまい、悩み苦しんでしまっている場合が案外多いものだと思います。

part1でも申し上げましたが、この「認知の歪み」は誰にでも例外なく起こり得ることです。日々の営みの中で、私たちの思考の偏りやクセを知っておく為のツールとして、この「認知の歪み」のパターンを頭に入れておくと、些細なストレスを抱えた時に、フッと我に返ることができるかもしれません。

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認知のゆがみ part1

現代はストレス社会と言われて久しいですが、そもそもストレスが生み出される要因ってなんでしょうか?「原因は自分にあり!!」と言われてしまうと、私たちはますます落ち込んでしまったり、そんな相手に対して腹を立ててしまうものですが、とにかく自分を責めてばかりいては精神的にも辛くなってしまいます。

しかし、ストレスを感じてしまった時、心が晴れない時には、私たちの思い方、物事の受け止め方にも原因があるかも知れません。「認知のゆがみ」って言葉を聞いたことはありませんか?僕もつい先日遅まきながら新聞のコラムを読んで知りました。

「認知」とは、辞書で調べてみますと「外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。」という意味があります。心理学では「言語化された思考」という意味があるそうです。そんな考え方のクセから私たちの思考回路に歪みが生じてしまうことがあるそうです。

心理学では、この「認知のゆがみ」は10種類に分類されるそうです。本日はその中より5つを紹介させて頂きます。(他の5つは後日ご紹介させていただきます。)

①「全か無か思考」
ほとんどの問題は, 白か黒かのどちらかに決めることは出来ません。灰色や赤色、黄色や青色が存在するように、全ての事実というものは、それらの中間にあるものです。しかし、物事を見るときに「良いか悪いか」、「好きか嫌いか」、「0か1か」という2つに1つのの見方をしてしまうことを「全か無か思考」といいます。

普段は一歩引いて客観的に色々なモノの見方が出来ている人でも、ストレスが掛かった状況が長く続くと、知らず知らず思考パターンが狭まってしまいやすいようです。

②「一般化のしすぎ」
自分の思い通りにならないことや失敗することが続くと、「いつも決まってこうだ」、「自分は上手くいったためしがない」、「結局はこうなんだ」などとマイナス思考で物事をとらえてしまうということです。

本来、失敗は誰でも多くするものですが、このような考え方になりますと、たった一つの物事でも、イヤなことが繰り返し繰り返し起こっているように感じて、ネガティブな考えしかできなくなってしまうようです。

③「心のフィルター」
たった1つの良くないことにこだわってクヨクヨと悩み、他のことが頭に入らなくなってしまうこと。このような思考になると、良い情報を無視して、悪い情報ばかりを選んで取り上げてしまいまい、何事もネガティブに見てしまいます。

④「マイナス化思考」
単に良いことが頭に残らないだけでなく、何でもない事や良い出来事であっても悪い出来事にすり替えてしまうこと。例えば自分は能力がないと考えている人が、仕事が上手くいっても「これは偶然だ」と考え、仕事が上手くいかない時は、「やっぱり自分はダメなんだ」と考えてしまうことです。

⑤「結論の飛躍」
特に確かな理由もないのに悲観的・自分は良くないんだ・悲しいというような結論を一気に出してしまうこと。根拠のない決め付け型。破局的な判断型に分類されるそうです。

a. 心の読みすぎ:ある人が自分に悪く反応したと早合点して、決めつけてしまうこと。
b. 先読みの誤り:今の様子は確実に将来悪くなると決めつけること。

例えば、重い病気を宣告された時に、「これで人生は終わりだ!」と判断してしまったり、一度や二度の失恋で「もう私は死んだ方が良い」と考えてしまう。また、同僚や同級生、上司との間で失敗をすると、「もう自分は嫌われている」と決めつけてしまうことです。

以上、本日は「認知のゆがみ」より以上の5つのパターンを紹介させて頂きましたが、もし、頭の中でモヤモヤとしている時やストレスを感じている時は、この「認知のゆがみ」という思い方のクセに原因があるのかも知れません。

確かに自分に原因があるとは誰でも思いたくないものですが、やはり自分の考え方を変えていけば日常で起こる失敗も成功も明るく受け取れるものだと思います。私もつい「全か無か思考」になりやすい所があり、自分自身にストレスを与えたように思います。むむむ、反省です(>_<)

常日頃からこうした「認知のゆがみ」と真摯に向き合えるようになれば、より広い視点で物事が見つめられるのではないかと感じました。
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判断基準

私達は毎日の生活の中で、仕事にしても物を買う時にしても、或いは人から何か頼まれ事があった場合にしても、どうしたら良いか、どちらを選んだ方が良いかと迷い悩む時があります。 

そんな時、私達は三つのことを基準にして選んだり判断を致します。まず一つ目が「損得勘定」です。それを選ぶこと、判断することが自分にとって損するか得するかを基準として、普通は「得」と思えるほうを取るものです。 

次に「苦・楽」ということで、それが自分にとって苦しいことか楽しいことなのかという判断基準でして、私たちは当然ながら楽な方を選びます。 

最後三つ目は、人間は感情の動物と言うように「好き・嫌い」で物事を選びます。そして大概は「好き」のほうを判断基準に置くものです。 

これは殆どの場合に共通しているようで、私達人間はこれら三つを判断基準に置いて、それが自分にとって「幸せにつながる」と思い、得な方を選び、楽な方を選び、好きな方を選んでいるようです。 

ところが、自分の思い描いた通りに良くなっていけば良いのですが、現実には幸せにならず、良くはなっていかない場合も多くあり、そんな時、私達は「どうして?何故?」と悩み苦しむものです。 

仏様はその原因は「自分にあり」と仰せです。なぜ自分なのかというと、結果に至る道のりを歩いてきたのは自分だからです。では自分の一体何が原因かというと、最初の損得でいえば得を選び、苦楽でいえば楽を選び、好き嫌いでいえば好きを選んだことになります。そして得だと思ったことが損となり、楽だと思ったことが苦となり、好きと思ったことが嫌いな結果を招いてしまったのです。 

その根本的な原因というのが、私たちの心の作用(はたらき)にあり、この働きを仏様は「三毒」と仰せで、三毒という心は一言で申しますと、自分本位な心のことです。飽くまでも自分が傷つかないように、今よりも損をしないですむようにという欲望のことです。 

私たちの生活する社会は、自分一人だけでは決して生きて行くことは出来ません。相手が存在してはじめて成り立つものです。それなのに、自分だけ得をしよう楽をしようと思ったら、必ず誰かが損をする、苦労をすることになってしまうのです。 

諺に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とありますが、私たちは自分が良くなることばかりを考えずに、先ずは自分が楽なことよりは骨が折れるような苦労をすること、自分が得することよりはちょっと大変でも相手を喜ばせることを考え、選択し実行を積み重ねていくことが大切です。 

こうした三毒とは正反対の思い方や行動が、巡り巡って自分にとって本当の幸せとなってかえってくると仏様は仰せです。お互いに、自分の欲を満たすことばかりを考えずに、少しでも人の為になること、社会の為になれるような行動をしたいですね。

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無財の七施

「布施」と耳に致しますと僧侶に金品をご供養する事を思い浮かべる方が多いと思いますが、それだけが「布施」ではありません。仏法の為、あるいは他の人の為に自分の所有している財、あるいは身体、時間、更には智慧、能力等を活用し、喜捨する事を総じて布施行と言います。

釈尊はご自身が悟られた縁起の理法の真理に基づいて、布施行、つまり「施しをせよ」という事を強調なさったのです。

「周りをよくしなければ、自分もよくならぬ」、「他の人の幸せを願わねば、自身も幸せになれぬ」故に「他に様々な施しをする事は、結局我身に施すことになるのだ」と釈尊は説いておられるのです。

「情は人の為ならず」という諺がありますが、この意味を近頃は「他人に情をかけるのは甘えを起こさせることになり、かえってその人のためにならない」とまさに現代の世相を反映したような名(迷)訳をしているようです。 『広辞苑』の説明を引用し、本来の意味にしますと「人に情けをかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」となります。

さて、タイトルの【無財の七施】とは、慈眼施(ジゲンセ) 和顔施(ワガンセ) 愛語施(アイゴセ) 捨身施(シャシンセ) 心慮施(シンリョセ) 床座施(ショウザセ) 房舎施(ボウシャセ)以上、七種の「施し」のことですが、この七施はいつでも、どこでも、だれにでもできる布施行なのです。

一番目は「慈眼施」人をいつくしみ深い眼差しで見ることです。〝眼は口ほどにものをいう〟等と言いますが、私共の心の動きは眼に敏感にあらわれるものです。とくに怒りの感情をいだいた時がそうです。だから〝目〟に〝真〟実があらわれると書いて〝瞑〟(いかり)と読むそうで、そういう意味で、心の持ち方から変えていかないと慈眼施は難しいものだと言えます。

二番目は「和顔施」これは笑顔のお布施です。日蓮聖人は「他の人になにもしてあげられない人は、せめて日に三度は笑顔をお布施しなさい」と和顔施をすすめておられます。

三番目は「愛語施」これは誠実な思いやりのある言葉づかいに心がけることです。どうも私共は、人の欠点をあげつらったり、けなしたりするときにはずいぶんと精力的、積極的に口から言葉を出せるのに、人に感謝の意を表わしたり、誉めたりしようとする時には、とたんに口が重くなるという傾向があるようです。

四番目は「捨身施」自分の身体、労力を他の人のために役立てることです。他人に迷惑をかけない、あるいは不愉快な気持を懐かせない振舞いが出来れば、これも「施し」と言えます。

五番目は「心慮施」です。心慮施とは、人の悩みや苦しみを自分のこととして受けとめ、親身になって相談にのってあげること、あるいは人と接する時こまやかな気くばりを忘れないことです。

六番目は「床座施」ゆずり合いの心をもって人に接することです。電車やバスの中で身体の不自由な人に席を譲ることです。権力を振りかざさない。

七番目は「房舎施」人の心に安らぎ、ゆとりを与えるような立場を提供すること、あるいは雰囲気をつくること。客を招いたとき、さりげなく花を飾っておく、庭石に水をまいておく、一宿一飯の施しを与えるといった心づかいが房舎施です。 

以上、七つの布施行を紹介致しましたが、この七つは誰でも志を持てば、いますぐにでも実行出来る事ですが、ここで一つ、心掛けるべきものがあります。

それは布施供養とは、する側が「有難い」と感謝すべきもので、自身に功徳を積ませて頂く為に「させていただく」ものだということです。

たとえば席を譲った場合、「かわいそうだから席を譲ってあげた」という気持ちではなく、他の人に席をゆずる事を功徳行として受けとめて、「坐って頂いた」という思い持つことが大事なのです。 

御教歌  よの人に 施すのみの 功徳ぞと おもえばわれに かえるなりけり

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剃髪

スキンヘッド用バリカン皆様は僧侶(お坊さん)が髪を剃る理由ってご存じでしょうか?色々と調べてみましたが、様々な説があるようです。そんな私もつい数ヶ月前より、バリカンではなく、カミソリで頭を剃るようになりました。

何と今はスキンヘッド用のバリカンも発売されており、結局は今もバリカンです(笑)便利な世の中になりました。

キッカケは熱海の妙立寺でのこと、熱海にバリカンを忘れてしまった私は、急遽予定が入ったご回向の法要を伸び始めた頭で奉修させて頂く訳にも行かず、急いで近所の床屋さんへ足を運びました。

何と床屋さんには故障したバリカンしかなく、その場の勢いで「剃りましょうか?」という床屋さんの問いかけに頷くしかありませんでした。

ツルツルテカテカの頭で無事に(?)法要を奉修させて頂き、振り向くとお役中さん方が大変ニコニコされているんです。理由をお伺いしましたら、「お坊さんらしくて可愛い(笑)」との有り難い声援を沢山の方々にお声掛け頂いたのです。

「あ~なるほどな~!!お坊さんらしいか~!!そんなもんか~!!」と私自身、妙に納得してしまいまして、それからは生まれながらの剛毛に負けじと頭が傷だらけになりながらも、辛抱強く頭をそっています。お蔭様で最近は少し上手く剃れるようになりました。あっ、今はバリカンですが。。

古来より頭髪は男性の誇りでもあり、随分と大切にされて来ました。日本も武士のマゲ、マサイ戦士の髪編、蒙古の弁髪、中世西洋貴族のパーマなどが代表的なもののようです。清潔を第一としながらも、現在も世界各地でこうした伝統が残っています。

さて、私たち僧侶が髪を剃り落とす(剃髪)理由ですが、髪の毛は人間にとって「煩悩の象徴」といった意味があるようです。かってもかっても生えてくる、だからいつも頭をきれいに整えて、煩悩から離れるという理由だそうです。

また、剃髪には「生まれ変わり死に変わり」という意味もあり、髪をかるということは=首をかるということにつながり、煩悩にまみれた自分がそこで一旦死に、清浄でまっさらな自分として新たに生まれ変わる、という意味もあります。

世間でも大きな失敗をすると、新たな自分に生まれ変わる決意の表明として、丸坊主になってお詫びするということがあります。

何れにせよ剃髪の意味をしっかりと踏まえて、今後ともスキンヘッド用バリカンを使って参りたいと思います。

 

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時代に合わせて説く

実践経営哲学松下電器(現パナソニック)の創業者である松下幸之助氏は、数多くの書籍を残されました。私もその中より何冊か拝見させて頂きましたが、長年の体験に裏付けられた内容は、時代を超えても全く色あせない勉強になるものばかりです。

今回は「実践経営哲学」という本の中より「時代に合わせて説く」という文章をご紹介させて頂きます。                                    

「よく、長い歴史と伝統をもった「老舗」といわれるところが、経営の行きづまりに陥ることがある。そういうところは、正しい経営理念をもたないかというと決してそうではない。

むしろ、どこにも負けないような創業以来の立派な経営理念が明確に存在しているのである。しかし、せっかくそうしたものをもちながら、それを実際に適用していく方針なりやり方に、今日の時代にそぐわないものがあるわけである。

かつて成功した昔ながらのやり方を十年一日のごとく守っているというような場合も少なくない。もちろん、旧来のやり方でも好ましいものはそのまま続ければいいわけだが、やはり時代とともに改めるべきは次々に改めていかなくてはならない。

たとえば、宗教というものを考えてみても、そういうことがわかる。非常に偉大な宗祖とか祖師といわれる人々が説いた立派な教えは、その本質においてはいつの時代にも通用するきわめて高いものが多い。けれども、その表現については、ずっと昔に説かれたそのままに今日話をしても、それではなかなか多くの人に受け入れられにくいものがある。だからその立派な教えを、今の時代に合わせて説くことによって、はじめて人々に広く受け入れられるのである。」

以上の文章は松下幸之助氏が飽くまで経営者としての立場で執筆されたモノであり、読み手も経営者をはじめ広く社会一般の方々に向けられたモノであります。

佛立開導日扇聖人の御教歌には

「これでわれ よしと思へば おこたらん 信は忘るゝ まなくすゝめよ」と仰せです。

私たちはどのような物事でも「これで良い」と思った瞬間に、油断や怠りの心に捕らわれてしまうものです。「自分はこのままで良い」と思う心は、「変化」や「改良」を嫌う心であるとも言えます。これはどのような分野、組織などにも共通していることであると思います。

私たちは、本質的には面倒くさがりですから、ちょっと油断をすると、すぐ煩悩に負けてしまいます。ですから、常に現状に安心や満足をすることなく、「改良や前進」を心掛けることが大切になってまいります。

私自身を振り返りますと、日々信心改良を心掛けながらも、色々な場面で「これでよし」と油断や妥協をしてしまうことがあります。

平成25年度の抱負としまして、先ずは自分自身の「これでわれよし」と思う心と一つ一つしっかりと向き合わせて頂き、そして拝見させて頂く御法門は如何に「時代合わせて説かせて頂けるか」という点に力を入れさせて頂きたいと思います。

 

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