御利益ということ

佛立開導日扇聖人御指南
「御利生の妙は水中の火 木中の花也」

妙法御題目の不思議さは、喩えていえば水の中で火を見るように非現実的なことであり、私達の常識で考えても分かりません。

また、木の上に花が咲くということも、当たり前のように感じますが、それだってよくよく考えてみると、木の中に花があるわけでもないのに、何で毎年同じように花が咲くのか、とても不思議なモノであります。

結局のところ自然界の道理というのは、人間には理解できない部分が多くあり、自然の摂理としてそうと決まっていることを、何だか分からないけれどもそういうモノなのだと、目に見える部分だけで納得するしかありません。
 
それでも、花が咲くのを実際に見れば、その美しさによって自然と心が癒やされるように、妙法の御利益を見れば御題目の不思議さに有り難みを感じて、自然と信心が起きてくるものです。

理屈として分からないことであっても、実行すればこそ答えがでて、目で見ればこそ心が変わってくる、そういう理屈を超えた実践行として、毎日の口唱行に励まなくては、妙法の貴さは分かってこないのです。

お互いに、御看経の徳は必ず目に見えてくるモノと心得、毎朝毎夕の御看経を真剣に真心こめてさせていただきましょう。

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未来の一座「開導聖人書画展」

10月に入ったというのに暑い日が多くてあまり秋らしさを感じないかと思えば、急に涼しくなったりして体調管理の難しい気候が続いています。

i大荒木の

いよいよ「乗泉寺の未来をつくる一座」が近づいてきて、スタッフのみんなも映像の処理やら企画の調整など大変忙しくなってきました。

この陽気で体調をくずさなければ良いのですが、異体同心でラストスパートをかけ頑張っていきたいと思います。

さて、10月23日の未来の一座は、第一部本堂10:30~、第二部境内12:30~(新住職就任祝賀パーティー)の二部構成になっております。

第一部は勿論のこと、第二部でも企画が盛りだくさんのようで、中でも乗泉寺が所蔵する開導聖人の書画を一部公開する予定になっております。

ご存じのように、開導聖人は幕末から明治にかけて活躍された宗教家であると共に、幼少の頃から儒学・和歌・書道・日本画をよくし、長じて国学を修めた超一流の文化人でもあられました。

特に、書画においては江戸末期の三筆と言われたり、当時の知識層などが掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されました。

御教歌→
「大荒木の 杜に声する梟の 
       なくも心の ままにや有るらん」

破れても

 

また、明治天皇の和歌の教師であった高崎正風が、日扇聖人の詠んだ歌を優れた歌として明治天皇に紹介し、明治天皇がその歌を非常に賞賛されたそうです。

ちなみにそのお歌も乗泉寺に所蔵されているのですが残念ながら今回は展示されません。

明治天皇以外にも三条実美などの公家にも、日扇聖人の短冊を所望する声が多かったとのことですから、開導聖人がいかに優れた歌人であったかが伺い知れると存じます。

普段は絶対に見られないお宝を、この日だけに限って公開しますので、ぜひぜひご家族そろってお参詣いただきますようお勧め申し上げます。合掌

←御教歌 
「破れても をれてもさせる 傘(からかさ)の
      金魚にかへば タッタ一匹」

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法華経

本門仏立宗では法華経(妙法蓮華経)を根本経典としており、その法華経こそは仏教における最高聖典だといわれています。法華経が中国で翻訳されたとき、天台大師はそれこそ山ほどあったお経典の中で、一番優れているのはどれだろうと研究されました。

蓮華草それまで読まれてきた原始経典や、華厳経や般若経などの教えと、法華経の教えとを色んな角度から比べて、お経典の順位づけをなされた結果、法華経こそが諸経の中の王様であると判断なされたのです。

いわゆる天台法華哲学の教えは、やがて中国から日本へと伝わり、比叡山を中心として法華経の教えが弘められていきました。鎌倉新仏教の祖師と称せられる人人、法然さん、親鸞さん、道元さん、そしてお祖師様日蓮聖人もまた、叡山の学僧となって法華経にふれ、天台法華哲学を学ばれたのであります。

ただし天台法華の教理は非常に複雑なため、一部の出家だけが山籠もりで修行をし、現実の社会とはかけ離れたところにあって、一般庶民には殆ど縁の薄いモノでした。

人の社会

 

叡山での修行をへて、仏法と世法とが大きく距たっていることに疑問を持たれたお祖師様は、天台大師の理論を拠り所とされながらも、もっと現実に即した観点から法華経をご覧になられました。

 

つまり、より実践的で対社会的な布教活動に目を向けて、法華経の菩薩行を民衆の中へと促されたのであります。即ち、法華経の肝心である上行所伝の御題目を、信心で頂いて口唱に励むことが、末法における唯一成仏の方法であるという結論に到ったわけであります。

それまでの修行者のように、山へこもってひたすら法華経を読んだり、写経をしたり、頭に記憶するといった、非社会的な修行をいくらしても、万民を救うことは決して出来ません。ましてや、どんなに難しい理論を学んだり、覚えたとしても、それは机上の空論となりかねず、末法には相応しくない修行だといえます。

太陽例えば、宇宙に広がる満天の星々が私達の生活に何らの影響も及ぼさず、我々の銀河にあっては中心の太陽こそが地球生命にとってかけがえのない存在です。

同様に、世の中には色んな教えや学問があるとしても、人人の生活と直接関係しながら、命を正しい方へと導くことができるのは、諸経の中心ともいえる法華経のみ教えだけなのです。

太陽の光に浴してあらゆる生命が誕生していくように、法華経の光に浴することで凡夫の命が菩薩の命として生まれ変わることが叶うのです。いわば、法華経は菩薩をつくりだすために説かれている教えなのです。お互いに人として生まれたからには、菩薩行とは何ぞや?と、自らに答い続けていく必要があります。

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命の大切さ

我々人間にとって、一番大事にしているモノはなにかといえば、当然ながら命ほどに大事な物はないはずです。では、その何より大切な命を本当に大事にしているかといえば、意外と命を粗末にしている人が多いのではないでしょうか。

働きづめの過労で命を落とす人、過激なダイエットで健康を害する人、危険をかえりみない命知らずな人、などなど、命を粗末にしても何とも思わない人が、世間にはたくさんいるようです。

しかし冷静になって考えれば、自らの命を削るようなことをしてまでも、手に入れなければいけないモノが一体どこにあるというのでしょう?命を失えば何もかも失ってしまうわけで、全ては命あっての物種であります。

そんな易しい分別もつかないほどに、私たち人間の執着というのは、正しい判断が狂ってしまっているのです。或いは、私達が信じ込んでいる社会の常識さえも、大きく混迷している状態にあるのです。

そもそもからすれば、命や健康というモノは、お金では買えない程の得がたい価値があるモノです。当たり前のことですが、世の中の風潮として命が軽んじられているようですから、「生命の尊重」を強調していくことが現代に求められているのではないでしょうか。

勿論、信心修行も命が資本ですから、正しいご信心を持つお互いは、命を粗末にするようなことを慎み、体の養生に努めることが大切です。せっかく授かった自分の命を大事にできないなら、他人の命だって大事にできるわけがありません。菩薩行を心がける私達ご信者は、自分も含めた全ての生命を尊重する、そういう心が根本にないといけないのリスです。

お祖師様日蓮聖人は、「命と申物は一身第一の珍宝也。乃至。一日もいきてをはせば功徳つもるべし。あらおしの命や命や」(可延定業御書)と仰せになっております。

お互いに、儚い命を無駄にすることのないよう、菩薩行に目覚めて、真に価値ある一生を送りたいものです。

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和合の世界

社会の中で他人と共存して生きている私達は、周囲の人たちとどういった姿勢でお付き合いをするべきでしょう。

そもそも近代社会の風潮としては、人付き合いをさける傾向にあるようです。人付き合いなんて無い方が楽だと考えて、ご近所づきあいも希薄な関係になりつつあり、一歩踏み込んで人とお付き合いをすることがなくなってきています。

しかし、こういった傾向は何だか矛盾を含んでいるように思えます。そもそも孤独になりたいのであれば、何の為に社会の中で生きているのでしょう。人里離れた山奥なんかで一人っきりで生きていくには心細いから、わざわざ都会に集まって他人と一緒に生活をしているのです。それだったら、もっと前向きに人と交流していかなかったら、何の為に大都会で生活をしているのか分かりません。

平和だいたい、人と人が交わって生きていくのが社会なのです。社会というのは、人と人とが知り合い、助け合って、お互いのことを理解し合える場所のことです。そういう暖かみのある世界を目指して、少しでも我が身を献じていきませんと、いつまでたっても理想的な生活は送れないのです。

例えば、幼い子供が扇風機に手を伸ばして、隙間から指を入れようとしているとします。無邪気な子供はそれがどういった結果に繋がるのか、先のことをまるで考えていない場合が多いのです。いくら子供の遊びだからといっても、痛い思いをするのは可哀相だと思って、近くにいる大人が危ないから止めなさいと注意してあげる、これは当然の思いやりであります。

分別のつかない子供を守るには、無理矢理にでも危険から遠ざけなくてはならないわけです。痛い思いをするのは本人だから私は関係ないと無視したり、子供は何度言っても話を聞かないから面倒なので相手にしたくないと、もしもそんな風に考えるなら、まるで人の痛みを理解しない無慈悲な人といえるでしょう。

自分が守ってあげるべき人を大切に守り、伝えるべきことはしっかりと伝える、それを仏法では折伏行と申します。気ままな人間の危うい行為を無闇に放っておいたら、未来はどうなってしまうか分からないのですから、駄目なモノは駄目なんだと、人のあやまちを未然に防ぐことが本当の優しさであることを、私達は早く気づきたいものです。

子供に注意を与えるのとは違い、大人同士のつきあいは複雑だから、うるさいことは言わないで黙っていた方が得策だと思う、それが凡夫の考え違いであるということをお互いによく自覚して、折伏の決意を持って人助けに励みたいモノです。

お互いの良いところは吸収し合い、悪いところは戒めあってこそ、理想の社会に近づいていけるはずです。人付き合いをさけて通ったとしても、それは苦しい思いを先延ばしにしているだけなのですから、一時的に楽ができても本当の安心には繋がらない、そういったことを教えられているのが、仏教の教えなのです。その教えを全体の幸福の為に役立てていきたいモノです。

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社会の平和を目指して

廃墟と化した街
ちょっと前のことになりますが、北朝鮮がミサイルを発射して、日本中が騒然となりました。宇宙に飛ばせば人工衛星ロケット、他国に向けると長距離弾道ミサイル。どんなにすぐれた発明品も、それをあつかう人間が悪用すれば、人を傷つけるモノになってしまいます。

 

文明と人間とは互いに切っても切れない関係にあるのですから、世も人も共に良い方へと変わってこそ、笑顔の絶えない社会が実現して、心からおめでたいといえるのです。

仏様は、社会ということについて、こんなふうに仰っています。

「幾千万の人が住んでいても、互いに知り合うことがなければ、社会ではない。社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互いに知り合い信じあって、和合する団体のことである。まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。」

いかがでしょう。正しい社会をつくるには、真の智慧が輝いて、その光を浴びて心を一つにしなくてはいけないのです。

地球私達が住んでいる地球も、太陽という光がなかったら、ただの暗闇にすぎません。光のハタラキによって地上に色彩がもたらされるように、仏様はわれわれ人間に光をあてて心に色彩を与えて下さいました。

その光こそが仏法なのです。そして仏法の中でも法華経の教えこそ、人々の心を隅々まで明らかにする、この上ない尊い光なのです。

桜と光妙法の光に照らされて、私達は初めて己の姿を見ることができるのであり、また、社会に生きる他者の存在を知ることができるのです。妙法の光が届かなければ心は暗闇のままで、お互いの存在を認め合ったり、手を取り合って、喜びを分かち合うこともできず、虚しくひとりぼっちのままなのです。

お祖師様は「天晴れぬれば地明らかなり。法華を知るものは世法を得べきか。」と仰せで、法華経御題目の光によって、この世を明るく住みよくしていかなければならないとお教え下されています。

お互いがいただく御題目様には、人々の心の凹凸を平らにして、和合させるお力が備わっています。その大慈大悲を世の中にも弘めて、お互いによく知り合い、信じあって、助け合うことができる、そんな正法興隆の世にしていかなければいけないと思います。

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本尊の意義

世界で一番宗教団体の多い国はどこかというと、実は日本なのだそうです。しかもその数は国内だけで十八万という膨大な数に及ぶそうです。これだけの宗教団体があるのですから、信仰の対象となる本尊の種類も、同じように数多くあるはずです。

そう考えますと、はたしてどれが良いのか正しいのか、一般の人は判断する基準も分からないでしょうから、宗教というのは紛らわしくて怪しいモノだと、そんな風に感じてしまう人も多いのではないでしょうか。

以前、ある人がこんなことを言っていました。「宗教というのは結局のところ自分の心を満たす為にするのでしょう?だったら、いわば宗教は人生のアクセサリーのようなもの。自分の好みにあった宗教を選択して、それで満足できるなら何でも良いじゃない?」というのであります。

確かに今の時代は、宗教を選択するのも個人の自由意志によりますが、果たしてそれで平気なのでしょうか。多少は善意の残った宗派があるとしても、悪意に満ちた宗教も実際に多いわけで、むしろ、危ない思想を持った集団こそ、人を煽動することにたけているといえますから、やはりいくら信仰を選ぶのは自由といっても、宗教をアクセサリー程度に考えるのは、余りにも軽はずみな考え方といえそうです。

そもそも宗教というのは、私達の心や身体、自分の未来や家族の将来にまで、幅広く影響を及ぼす重大な選択と申せます。ですから、宗教の正邪というモノをよくわきまえて、正しい御本尊をお持ちしなかったら本当に大変なことであります。

その点、仏教の教えというのは理論が徹底していて、御本尊の正当性とか優位性などを立証する方法が昔からキチンと確立しているのでご紹介したいと思います。その法則というのは「本尊の三義」と申しまして、正しいご本尊とは、三つの意義を兼ね備えたモノでなければならないと教えられております。

一つには「根本尊崇」といって、本尊とは、誰もがあがめるにふさわしく、比べることが出来ないほど尊いモノでなければいけない。

二つには「本来尊重」といって、本尊とは、いつの時代においても変わらず、永遠に尊いモノでなければいけない。

三つには「本有尊形」といって、本尊とは、どこかの誰かが作った模造品ではなく、本から尊い姿を持ってなければいけない。

ご本尊これら三つの観点から考察して、世界中で最も尊いもの。時空を超えて永遠に尊いもの。あらゆる仏神の源であり元初から尊いもの。それは果たして何であろうかと、こういう検証をくりかえしていくと、全てに符合するご本尊というのが、法華経本門八品に説かれた上行所伝の御題目なのです。

当たり前のことですが、全ての宗教があやしいというわけではありません。正しい見識をもって仏教の教えに近づいてもらいたいと願っております。

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貧乏神と福の神

貧乏神というのは、各地方によって諸説あるようですが、だいたい囲炉裏にまつわる神様です。昔の囲炉裏はいわば家庭の台所、毎度の食事にも困って炭をおこすこともままならない、そんな家を好んで住みつくのが貧乏神です。貧乏神と聞いても、現代人にとっては単なる迷信でしょうと思われるかも知れませんが、実はそうとも言いきれません。現代でも貧乏神に取りつかれた人はたくさんいます。

貧乏神に取り憑かれた人の特徴として、とにかく「無い無い」を連呼するようです。お金がない、時間がない、余裕がない、解らない、出来ない、信じない、治らない、等々、いつも否定的なことばかりを言って不足の念にとらわれていると、貧乏神に取りつかれている一つの証拠なのです。

お互いに自らの言動をふりかえってみるといかがでしょう?ひょっとすると、自分でも気づかないうちに貧乏神に取り憑かれて、不平不満を訴えたり、周囲に愚痴をこぼしたり、自分の思い通りいかないことに腹を立て、マイナス思考に陥ってしまうことがあるものです。

だいたい私達みたいな凡人は、心の欲求に切りがありません。食欲ということ一つを取ってみても、美味しいものを食べた時の満足感も、数時間も経てばまたお腹が減ってきて元通り。ましてや、一度美味しいご飯を食べると、次はもっと美味しいものが食べたくなり、食事量もだんだん増えてしまう。

人間の欲というのは一事が万事その調子ですから、睡眠欲にしても財産欲にしても名誉欲にしても全て同じことなのです。我々の欲求が満たされるのはたった一瞬のことでしかないわけで、不足の念に取りつかれると、ナイナイ尽くめの不満ばかりがこみ上げてきます。

上を見て、不足不満をいっていたらキリがないのですから、ある程度のところで満足をして、ほどほどのところで感謝する。こんなにしてもらえて、自分のようなモノには勿体ない、有り難いことだと喜びをかみしめる。そうやって、自分が受けている恩恵とか恵みというモノに、一々感謝して、心から喜べる人には、満足の神様、福の神が舞い降りてきます。

ありがたいありがたいと口癖のように感謝して、おかげさまでおかげさまでと喜びに包まれている。これこそが正しい人間の真心ではないでしょうか?そういう感謝の念に包まれて生活している人を見ると、その尊いお心にふれて、周囲の者でさえも幸せな気持ちにさせていただけるものです。

お互いに、一日一日の生活の中に満足感や充実感を持つことが、福の神を呼び寄せる秘訣と心得させていただいて、心豊かに暮らしたいモノであります。

 

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ホームページ担当者新年挨拶

新春を迎えましてお喜びを申し上げます。猿

旧年中は乗泉寺ブログをご愛顧いただき真にありがとうございました。昨年はブログの更新など十分な御奉公ができず、ホームページをご覧になられた方々には、大変申し訳なく思っております。

本年は心機一転して、御奉公者一丸となってより良いホームページづくりに取り組んで参ります。どうぞ本年も乗泉寺ホームページを宜しく御願い申し上げます。

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子どもお会式

先週7月26日、第15回子どもお会式が奉修されました。一週間前から台風の接近というニュースに心配させられましたが、仏天のご加護をたまわり当日は晴天に恵まれ、700名を超えるお参詣をいただき、昨年よりも100名近くの参詣者増加を果たしました。その内、子供のお参詣は141名で、昨年よりも多くの子供達がお参詣してくれました。

今回の子どもお会式は「食育」というテーマで開催され、時流にそったご奉公を考えることで、お寺に興味のない人にも興味を持ってもらえるように工夫しました。人々の生活に役立つ情報がお寺から発信されることによって、お寺を中心とする新しいコミニケーションが生まれ、下種結縁の良いキッカケにもなるはずと考えました。

また、パンフレットの宣伝効果なども考え、きれいで見やすく古くない現代風の広告を研究してもらい、これからのご弘通に役立つことを模索して、新しい試みゆえ入念に準備を進めてまいりました。

また、昨年に引きつづき各ブロックから「屋台のご供養」を出店していただき、それぞれ特長をいかした個性的なお店が軒を連ね舌鼓を打ちました。当日の境内はいつにも増して熱気に包まれ、笑顔と笑い声が絶えない一日となりました。ご協力を頂いた皆様、本当にありがとうございました。

子どもお会式の写真は、後日「妙証だより」に掲載させていただきます。

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見えるモノ、見えないモノ

この世には、目に見えるモノと目に見えないモノがあります。

一本の木に喩えていえば、幹や枝葉は私たちの目に見えますが、地下にかくれた根っこは目に見えません。通常、根っこの存在などは意識もしませんし、正直あってもなくても同じことのように思いますが、では根っこを断ち切っても樹木は存在し得るのかといえば、実際そうではありません。目に見えないところもふくめて一つの命といえるはずで、実はこうしたことは我々人間の命についても同じことなのです。

目に見える今の私達、その命の中には、両親をはじめ無数の先祖といった、目に見えない命の根っこがあるのです。ご先祖がいなければ今の自分だって当然いないはずで、大きな流れの上から見れば、我々の命も先祖の命も一つにつながっていると申せます。

そもそも、我々が生きているこの世界だって、いったい誰が作りあげたものでしょう。人類の長い歴史の中で、無量の先祖達が築き上げたモノの上に、今の私たちは立っています。それなのに、目に見える現存の関係だけを大事にして、目に見えない死者との関係をないがしろにしたりすると、私たちを支えてくれている全ての土台が崩れてしまいます。根っこの切れた樹木はたちまち枯れてしまうように、先祖とのつながりが切れてしまったら、我々の命や社会は立ち枯れて腐蝕していくばかりなのです。

だいたい我々の生きるこの世界には、目に見えないことや、分からないことがまだまだたくさんあるわけで、この世はいつまでも神秘に包まれています。自分なんかにはまだまだ分からないことがたくさんあると、そういう謙虚な心で物事を見つめていかないと、いつのまにか傲慢という落とし穴におちいってしまいます。

ですから、仏教のみ教えでは自分の偏見を飛び越えて、もう一段上にある物の見方を提唱されています。目に見える物と目に見えない物、それらの両面を見つめて、そのどちらにもかたよらない。いわゆる中道という物の見方をして、万物を眺めるようにするのです。

先祖の魂というものに対しても、霊魂というのは肉眼では見えませんが、だからといってそのハタラキを軽視してはダメで、私たちの根元ともいえるご先祖のことを、大事にお敬い申し上げるのです。お墓を大事に守ったり御塔婆を立てたり、更には、上行所伝の御題目をお唱えして、ご先祖のご回向をさせていただきますと、仏様もご先祖方も大変喜ばれますし、それ以上にこちらも気分がホッとして、御法様にお任せしていれば大丈夫と、安心感で満たされてきます。

自力に頼らなくても仏力を頼むことによって、毎日自宅でもご回向がさせて頂ける、こうしたところにもご信者としての有り難さがあるわけです。そうやって、いつもご先祖のおかげに感謝していれば、目に見えない影の力が働いて、私たちの人生が「目に見えて」必ず良くなっていくものです。

7月8月はお盆の時期ですから、自分のご先祖様にねんごろにご回向をさせて頂いて、命のつながりをよく見つめ直すことが大切かと存じ上げます。

 

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竹の子

全国的に暖かい日が続いているようで、都内でも日中は25度を超え、夜になっても暑いくらいなので、私も自分の寝床から冬布団を片づけました。

乗泉寺の境内も、つい先日にようやく桜が咲いて春の訪れを喜んでおりましたら、それもこの陽気ですからまたたくまに散ってしまいました。四季のうつろいには別れもあれば出会いもあります。寂しげに見えていた裸の木々にも若葉が咲いて、境内が日に日に緑に包まれていく様子を今は楽しむことが出来ます。

ちょうど最近ですと、回廊沿いのツツジから次々と新しい花が咲いては枯れゆき、毎日違った顔を見せてくれます。地面に目を向けると、小さな小さな若芽が萌え出てくる姿を見つけられ、みんな頑張っているなーと感心したりします。

渋谷産の竹の子
それにつけても、乗泉寺には色んな植物が植えられておりまして、中でもこの時期の楽しみの一つに、霊堂前の竹藪があります。去年にはまったく生えてこなかった竹の子も、今年はわずかながら収穫が出来ました。

 

竹の子の素焼き料理屋さんを営むご信者さんのお宅にいくときにお土産として持っていきましたら、それを素焼きにして下さったので、シンプルに塩をつけて美味しく頂きました。

竹の子や山菜などの春の味覚というのは、その時期に食べてこそ本当のおいしさが味わえるモノですね。パックの竹の子も美味しいことは美味しいのですが、やっぱり取り立ての新鮮なものを食べてみると、香りの違いがよく分かります。

 

一口パクンとやると、竹の子の野性味あふれる香りがパーッと口の中にひろがって、さらに咀嚼すればするほど味わいが深まっていくので、食い意地の張っている私なんかは本当に幸せ一杯になってしまいます。

今、目の前にあるモノを感じるということは、人間にとって非常に大切な感覚だと思います。人間はウッカリすることが多いモノですから、昔にとらわれて今を見落としたり、空想にひたって今を置き去りにしたりしがちです。でも本当は、自分の目の前にあるものは、今しかないのではないでしょうか。自然とむかいあっていると、そうした根本のことを思い出させてくれるような気がします。自然は偉大だなあと本当に思います。

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春の境内・H27

正門前正門前2

 

 

 

 

正門前3

 

 

福祉館前

 

しだれ桜

 

 

 

 

本堂バック

灯籠と桜

 

 

 

中庭

 

 

 

昇堂口前

霊堂バック

 

 

 

 

中庭本堂前

 

本堂前中庭

 

 

講堂バック

 

 

 

 

煙突バック南門前

 

 

 

 

教務館前

 

 

今年の夫婦カモ

 

カモ逃げる

 

 

 

 

 

教務館5Fより中庭より講堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春うららかな乗泉寺、桜はどうも門祖会までに散ってしまいそうですが、新緑が間に合えばぜひご覧いただきたいところです。境内で花見も粋だと思いますが、新緑の淡い色も心癒やされるモノです。個人的には、新緑で満たされているときの中庭のほうが、生命力とか躍動感とか大地のパワーを感じられて、大好きです♪

写真を撮っているときに「バシャン」と凄い音がしたのでビックリしたら、妙証池にちょうどカモのつがいが訪れてくれました。ここ数年、妙証池が憩いの場になっているみたいで、まるでデートスポットみたいです。でも…写真をなんとかうまく撮りたいと焦ったあまり、近づきすぎて逃げていってしまいました。もうこれで来なくなったらどうしようかと、実はいまとても不安です。。。。。鴨さんごめんなさい(局長ではない)

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パプアニューギニア慰霊法要報告

過日に行われたパプアニューギニア(以下PNG)慰霊法要についてご報告させて頂きます。

成田出発前 成田荷物終戦70周年という節目の年にあたり、本年は宗門各寺院でも慰霊法要が営まれることと存じあげます。それに先立ち、第5支庁の有志により、この度慰霊団参が企画されました。

papua風景1papua風景2

 

 

 

 

 

1月17日より24日までの一週間、寒参詣中の団参という強行軍でしたが、宗内より7名、宗外者から1名の参加を頂きました。内、乗泉寺からは4B信徒・O.M氏、K.K師、私の三名が参加させて頂きました。

papua法要papua法要PNGは赤道のすぐ南に位置しており、日本から直行便で約6時間30分の距離にあります。オーストラリアのすぐ北にある、世界で2番目に大きな島、ニューギニア島の東半分をはじめとする600の島々からなります。国土面積は日本より若干ひろく、人口は約500万人といわれます。

papua法要PNGは1975年にオーストラリアより独立、常夏の島で四季はなく、雨期と乾期に分かれ、年間気温は21~32度で蒸し暑い。日差しがとても強く、現地人は黒人で、500を超える部族が、850以上の異なる言語を使物し、未開のジャングルの中で生活する人々も多いようです。物価は日本とほぼ同じぐらい。イモ類が主食で、海岸沿いは魚が豊富。バナナの木や椰子の木がそこら中に生えていて、陸地はほぼジャングルで緑一色。海辺は青空と相まって青一色。

南太平洋最後の楽園と言われるこの島が、第二次世界大戦中には激戦地となったのでした。こんなにも美しい島で戦争が行われていたとは…。大東亜戦争という捉え方は人それぞれ違うモノでしょうが、とにかく戦争によって悲惨な思いをした人がたくさんいらっしゃったわけで、戦争は絶対に許されないことだとあらためて痛感しました。

papua戦闘機パプア戦闘機

papua海岸法要

PNGに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかったそうです。今回の慰霊団参は、中でも多くの戦死者がでたウエワク、マダン、ラバウルの三カ所を中心に、25カ所をまわり21カ所で法要を執り行いました。

日本軍基地跡地法要飛行場跡

 

 

 

 

 

日本から御弘通御本尊をお供し、カメラの三脚を改造したお戒壇を設置、お線香とお蝋燭をお供えし、その前にお盛り物台を用意して、日本から持参したお酒やお煎餅、お茶菓子、団参者が握ったおむすび、お味噌汁など、飢えに苦しまれた兵隊さんへ、お供えしてまいりました。

おにぎりお供え物

 

 

 

 

 

また、第五支庁をはじめ、乗泉寺教講よりお申し込みを頂いた御塔婆は、法要の際に御宝前へお供えさせて頂き、その後、海中へ沈め、地中へ埋めることにより、当地の追善供養をさせて頂きました。皆様より多大なるお志を賜りましたこと、紙面をお借りして御礼を申し上げます。ありがとうございました。

お塔婆

 

 

 

 

 

私事ですが、私の祖父も戦時中ラバウルへ来ていました。出征前には日歓上人より「これで弾がよけていくよ」と懐中御本尊を賜っていたそうです。中国大陸を経てPNGへ赴き、マラリアや赤痢や飢餓に苦しみ、ラバウルにては所属する部隊が全滅する中、一命をとりとめられたとのことです。今回の慰霊団参では、その悲しみの地にも赴き、祖父の分まで戦友方の英霊にご回向をさせて頂けました。きっとお爺ちゃんも喜んでくれているだろうと思い、感慨深く、有り難いご奉公をさせて頂けました。

水塔婆

 

 

 

 

 

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お引っ越し

冬景色

今年の12月は例年よりも寒いような気がしますが、皆さん風邪などをひかぬようお体を大切にして、明年も良いお年をお迎え下さいませ。

26日、教務部では年末の大移動がおこなわれました。

11月に辞令のでたお教務さんは、この日にそろってお引っ越しです。

今年は、K師が東北のお寺へ移籍をされました。やはり今まで一緒にご奉公していたお教務さんが乗泉寺から去ってしまうのは寂しいモノです。

私も以前に地方のお寺へ出向することがありました。教務の世界ではお師匠の命令によって色々なお寺に出向し、その土地土地によって様様な御奉公を体験させていただけるわけで、それが自分にとっての幅を広げる大事な修行になるものです。

お寺で数多の先師先輩から様様な指導を受け、その土地の伝統とかご奉公のすすめ方を学ばせて頂くことによって、自分のそれまでの価値観が打ち破られて、新しい目線を体感できるものです。

もちろんお互い凡夫ですから、意見の相違とか摩擦があるとしても、色んなご因縁をいただいて自分を成長させることが出来るわけですから、そういうことも含めれば実に有り難いことだと申せるのかもしれません。

仲間のお教務さんが新しい境遇の中にはいって、色々と苦労をされながらご奉公にあたっていることを思い、渋谷に残ったメンバーもますますご奉公に励んでまいりたいと思います。どうぞ来年もまた乗泉寺のHPをご覧いただけたら幸いに存じます。

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