小布施

先達て時間が空いたので、長野県は小布施に行ってきました。ご存じとは思いますが、「おふせ」ではなく「おぶせ」と読みます。江戸時代は幕府直轄の天領だったそうで、何かのどかで、少し文化の香が感じ取られる場所です。長野ですからリンゴもありますが、有名なのは栗です。新栗の「おこわ」が目的でした。 

また、ここには葛飾北斎が晩年に長逗留したことから、作品も多く残っていて「北斎館」という美術館もあります。日帰りでは十分ではありませんが、強行軍で行ってきました。 

小布施堂栗は「小布施堂」「竹風堂」などが有名です。「栗鹿の子」「栗アイスクリーム」などが趣ある老舗店舗で選べます。建物としては「小布施堂」が一番好きですが、その店先では「栗おこわ」は買えません。少し離れた「蔵」という食事処(小布施堂経営)で頂く予定でしたが、お店は一杯、予約も一杯。しょうがなく諦めて、「北斎館」の見学に行きました。

風景①館には、土地のお祭りの山車に描かれた龍などの北斎真筆の絵や、一連の北斎漫画(印刷物)、草花などの静物画の展示があります。小布施と北斎の関わりがかいま見えるものでした。私の趣味として、美術館に行ったら展示作品のクリヤファイルを買うというのがありますので、帰りに「富士越龍」(部分)のファイルを買いました。 

陽も落ちかけて来たので、持ち帰りが出来る「竹風堂」で「栗おこわ」を予約して、次に移動しました。本当は知らせたくはないのですが、この地には、美味しいワインがあります。夏暑く冬寒い、一日でも寒暖の差があるところはブドウには良い所です。小さなワイナリーを訪ねました。

風景②このワイナリーは昔は酒造で、日本酒をつくっていたそうですが、今は主として美味しいワインを作っておられます。なぜ日本酒党の私がこのワイナリーを知ったかということですが、2年前にこのワイナリーが昔からの醸造を復活させ、少量ながら出された1本の純米吟醸(酒米は美山錦)と巡り会えたのがきっかけでした。シャンパンボトルに収まったそれは、見てくれで買った私を大いに反省させるものでした。 

今回はまだ新酒はありませんが、ここの美味しいシャルドネ(シロ)を買って来ました。来年の春が楽しみです。帰りに予約の「栗おこわ」を買って、家でおいしく頂きました。

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第5支庁支援助行

1月の仙台に続いて、8月11日に郡山・遠泉寺へ支援助行に行って来ました。バス等を準備して、教務4師とご信者30名の御奉公となりました。この日はお盆の入りで、全国的に帰省ラッシュ。東北方面も大変な渋滞となりました。 

予定より1時間遅れの午後2時過ぎに遠泉寺に到着し、さっそく布教区長・山本信得師が導師となって御看経を上げさせて頂きました。 

御看経の後、ご住職の栢森清洋師と福井事務局長からご挨拶並びにお話を伺いました。こちらからは乗泉寺と布教区からの義援金・お見舞い金を納めさせて頂きました。そして心温まるご接待を頂きました。正味1時間半という短い時間でしたが、何とかお助行の御奉公を成就させて頂きました。
お見舞い金贈呈仮本堂

遠泉寺の状況は、さすがに津波の影響はありませんが、地震の揺れによる建物の構造からの被災が甚大だったようであります。これを記している私は、昨年の秋にも行かさせていただきましたが、当時は二階建ての本堂でありました。二階にある本堂は柱が曲がり、物が壊れ大変な状態でした。併設されている庫裡も住めるような状態ではなく、一階入り口左にあるご信者の憩いの場所ロビーに、仮に御法前を用意され、御本尊・御尊像を御遷座されて御看経を上げさせて頂きました。 

栢森ご住職今回行かさせて頂きビックリしたのは、本堂が二階部分を取り払い、屋根を葺き、霊堂と本堂の建物の間に、立派な仮本堂が建立されてありました。 

ご住職の栢森清洋師は、何とかご信者皆と頑張って、一階建てでも本堂を再建されると、強い言葉でお話しされていらっしゃいました。

お寺の周辺も、パッと見ると震災の爪痕を感じられない穏やかな街並みでありますが、お話を伺うと、通り反対にあるマンションは解体しなければならないと行政の張り紙が貼られ、無人の建物でした。

遠泉寺集合写真郡山市内には、まだ解体撤去を待つ建物が大小数えると六千近くあるそうです。震災から1年半が経ちますが、まだまだ復興には時間がかかることを実感させられました。

栢森ご住職、福井事務局長をはじめ、当日御奉公をされていたご信者の皆様。本当にありがとうございます。一同、心より遠泉寺の復興を祈念させていただきます。

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会議は踊る

会議は踊るフランス革命とヨーロッパ全域を巻き込んだナポレオン・ボナパルトによるナポレオン戦争の終結後、ヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として1814年にウィーンで会議が開催された。各国は利害を異にしているので、駆け引きと策謀をめぐらし、数ヶ月を経ても遅々として進展せず、なかなか会議の座につくことが出来ない。 

夜ごと、舞踏会や饗宴に明け暮れしているうちに、エルバ島に流刑されていたナポレオンは島を脱出し、再び攻撃を受けるという事態になってしまった。

危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。 

オーストリアの侯爵シャルル・ジョゼフの言葉「会議は舞踏会ばかりで、先には進まない」。舞踏では一般にステップを踏みながら円を描くように動き、決してA点からB点に位置を移動するようには動かないことを、実際に外交交渉よりも連夜の舞踏会の方が目立った会議に言葉をかけている。 

戦前1931年、ドイツで『会議は踊る』というオペレッタの映画が制作され、題名を侯爵シャルル・ジョゼフの言葉から借りている。内容は、長引く会議の隙を縫った、ロシア皇帝・アレクサンドル1世とウィーンの街娘との夢のような逢瀬を描いている。日本では1934年、輸入・配給されていた。 

会議も自説に固持すると、何の合意も得られない。利口バカの集まりとなってしまう。何か、今の日本の国会を連想してしまう。各種法案はなかなか進展せず、話し合いさえストップの状態。国会議員は個人の思惑か?、党は分裂し「国民を第一」になんか考えてはいないようだ。 

近年、お寺でも会議が多くなった。私達は、御祖師様の御弟子として、ご信心という筋の通った会議を持たなくては成りません。どうすればよく御奉公ができ功徳が積めるか、というご信心の筋を踏み外してはなりません。「頭でっかちの足弱」がいくら得意に意見を述べても、「船頭多くして船山に上る」であります。自己反省も込めて。

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エイプリルフール

その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だった少女までもが含まれていた。 

フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事件を忘れないために、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっていった。これがエイプリルフールの始まりであるという説がある。 

また、インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、4月1日を「揶揄節(やゆせつ)」(からかうの意)と呼んでからかったことによるとする説もある。 

4月1日には、世界中で新聞が嘘の内容の記事を掲載したり、TVニュースでジョークニュースを報道したりといった事が広く行われている。インターネットが普及してからは、ウェブサイトでジョークコンテンツを公開するといったことも行われている。 ジョークの規模についても、簡易なものから大きな労力をつぎ込んだものまで存在し、ウェブサイトにおいては個人発から大手企業発まである。 

逆に習慣を逆手にとって、ありえない内容に見えて事実の内容であったり、翌日以降に「嘘ではない」「本当に実施する」といった裏の裏をかいた記事が書かれることもある。これらのネタは、一種のファンサービスの行為にもなり、一種のお祭りとみなすことも出来る。 

中でも、2005年に日本の新聞社が掲載した「スマトラ沖地震の余波で沖縄南端に新島が出現」という記事を、韓国の新聞社がニュースとして掲載するなど、別のメディアが真に受けて情報元のメディアに騙されてしまった事例もある。また、エイプリルフールに便乗し、4月1日に発動するコンピュータウィルスを設置するなどの犯罪行為が行われることもある。 

昨年は東日本大震災直後ということもあり控えめだったが、今年は復興のためにも、笑顔は大切。でも、羽目を外さないようにが肝心。 

エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(四月の魚)と呼ばれる。

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仏具問屋

いつでしたか、上野の仏具屋がズラッと並んで通りをなしているところを、御奉公の帰りに道すがら歩いたことがありました。黒檀とか紫檀の仏壇が何割引きとか、店頭に出ていて結構中年のご夫婦のような人がそれを見ているんです。中にはサービスに御本尊付きなんていうのもありました。どんな御本尊なのかと覗いてみると、金メッキの仏像です。どんな人が買って行くのかと考えてしまいました。 

「どうして佛立宗は御本尊が仏像じゃないのだろう。奈良や京都の有名なお寺は仏様なのに。どうして釈迦如来を御本尊としてまつらないのか。どうして文字の南無妙法蓮華経を御本尊としているのだろう。文字はあくまでも文字、御法門で生きてましますみ仏と言われても、ピンとこない。どこが…」と疑念を持たれたことがあるかも知れません。 

では、どうして仏様が御本尊としていついつまでもあがめられているのでしょうか。お身体が端正だったとか、人々を哀れみいつくしまれたとか、帰依者が大勢いたとか、というだけのことではありません。かりに仏様が何一つ教えを説かれなかったとしたなら、大変お徳の高いお方だったというくらいで、歴史の本の数行で終わっていたかもしれません。そう考えていきますと、お説き残された「教え」こそ仏様の生命(いのち)ということになります。その教えのもとを法・妙法というのであります。ですから、もし法がなければ、教えもなく、つまり仏もなっかったことでしょう。 

法華経法師品に「また舎利を安ずることをもちひず 所以は何ん 此の中には すでに如来の全身います」とあります。つまり、「私が滅っした後に、私(仏)の舎利(ご遺骨)を安置し、まつる必要はありません。なぜなら、私はいつも妙法蓮華経という<法>の中に住まっているのだから」と出ています。 

妙法蓮華経という法は不滅です。この不滅の妙法を体得なさり、一体となればこそ、仏様は永遠に滅びないお方となられたのであります。このようなことから、当宗では、南無妙法蓮華経と妙法五字を書きあらわして仏様とし、御本尊としているのであります。 

御題目を信じお唱えさせていただけば、御利益が顕れ、生きてましますみ仏を我が身に実感させていただけるものです。

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観月

ビル間の月満月を眺めて楽しむことを観月といいます。俗にいう月見のことです。8月15日の「中秋の名月」から9月13日の「豆名月・栗名月」と、風情を感じる言葉が付いています。 

10月13日も満月を観ました。俗に言う「ホタル族」になったからかもしれません。月の満ち欠けを観るのもいいものです。 

古典の竹取物語、井上靖の小説・星と祭、芭蕉の俳句、短歌、絵本といろいろ月見に関した作品があります。その中で、月の兎の話があります。「月の兎がいる」という伝承にまつわるお話があります。 

猿・狐・兎の三匹が、力尽きて倒れている老人に出逢います。三匹は老人を助けようと考えました。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食べ物として与えることが出来ました。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることが出来ませんでした。

自分の非力さを嘆いた兎は、何とかして老人を助けたいと考えた末に、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食べ物としてささげるべく、火の中に飛び込みます。それを見た老人は、帝釈天としての正体を現して、兎の捨て身の慈悲行を後世にまで伝えるため、兎を月へと昇らせました。だから、月の影の模様が兎に見えるのです。 

このお話は、仏教説話「ジャータカ」を発端とし、「今昔物語集」などをはじめとして多く語られています。兎の横に見える影は臼で、中国では不老不死の仙薬の材料を、手杵で打って粉にしているとされ、日本やお隣の韓国では、老人のために餅をついている姿とされています。 

「今晩から雨」という予報です。月が見えないのは残念残念。(10月21日)

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6月17日

乗泉寺第4ブロック教講20名(教務2師・講務18名)は、仙台・妙護寺に震災激励参詣をさせて頂きました。明18日が震災百ヶ日忌でもありましたので、妙護寺ご住職の近藤泉国師のご協力を頂き、妙護寺教講と共に、何カ所か現地にて慰霊法要を営みさせて頂きました。

当日は、妙護寺の開導聖人ご命日総講にお参詣をさせて頂き、終了後すぐに仙台南道路を経由し、仙台市から南下、終点の山元町より北上し、仙台市に戻るという順路を実施させて頂きました。 

仙台慰霊法要①高速道路が土手・堤防の役割を果たし、その海側と内陸部側とでは、素人目にもわかるほど被害に違いがありました。

最初に山元町の坂元駅で慰霊をさせて頂きました。常磐線の駅舎とホームへの階段が、かろうじてここが駅で有ったことを示すぐらいでありました。

仙台慰霊法要②次に亘理の鳥の海という、夏になれば海水浴で賑わうという海浜公園で慰霊をさせて頂きました。隣接する荒浜という漁港ではまだまだ復旧の段階で、漁に行けるような状態ではありません。 

仙台空港の側を経由して、名取市の閖上(ゆりあげ)・日和山にて慰霊をさせて頂きました。三階だての三階部分も、津波の被害があった(波の下)のがわかります。

日和山山頂(小高い丘)は既に神道による慰霊が行われてあり、上がる階段の途中には簡単な鳥居も設置されていたので、無理して上がらず、日和山を背にし、海に向かって慰霊をさせて頂きました。 

仙台慰霊法要③仙台慰霊法要④もう一カ所、蒲生コミュニィティセンターでの慰霊を計画していましたが、残念ながら新幹線の帰路時間となり、慰霊が出来ませんでした。 

今回の慰霊は準備期間も短く、慌ただしいものになってしまいましたが、妙護寺ご住職をはじめご信者さんたちのご尽力のお陰で、意義深い御奉公がさせて頂けました。 

お総講参詣中より、雨は上がり、天気の回復というお計らいを頂きましたが、現地に行かさせて頂き、まだ8000名近くの行方不明の被災の方々がいらっしゃる(車中より自衛隊による捜索活動を拝見)と思うと、まだまだ慰霊の御奉公の必要大切なることを痛感した次第であります。瓦礫は大分片付けられ、私共の28名乗りの中型バスでも入って行けましたが、まだまだ、立ち入りに厳しい所もあるようで、本当に近藤泉国ご住職の入念なる事前下見があっての御奉公成就と感得させて頂きました。第4ブロック所属教講は、これに止まらず、これからも佛立信心による被災地支援を続けさせて頂きたいと存じます。

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胃ろう

凄い災害。困難に直面しても、混乱・パニックという事のない東北の方々を、TV等で拝見させて頂くと、頭が下がるばかりである。死というものがこんなに間近にある日常というものに、今更ながら人間の小ささを感じる。50も半ばになると、分かってはいるが凡智が出てきて、愚かにも自身の終焉を考えてしまう。勿論、最良は「唱え死」に越したことはないが・・・・ 

母は、晩年自宅で転び、骨粗鬆症もあり大腿骨骨折をし、より認知症が進み完全介護の病院に入り、そこで臨終を迎えた。90過ぎまで生きていた父は、教職舎の自宅で老衰で一期を終えた。子供・孫達に看取られて幸せだっただろうか。最晩年は栄養水?が中心ではあったが、結構食物を自分の口から採り、意識もある程度しっかりしていた。 

現代は、母のように大半が病院死だ。最後は病院で出来る限りの治療をという、家族の希望が繁栄されているのだろう。容態が一変すれば、救急車を呼ぶのが一般的であるからである。ここでの、終末期における延命?治療がやはりどうしても気になる。 

その主なものは、人口呼吸器と人工栄養療法の二つという。呼吸不全には、鼻や口から気管に管を通すやり方と、喉に穴を開けて直接気管に管を通すやり方がある。口から直接食事が摂れなくなると、大静脈に点滴で栄養を補給するやり方と、鼻のチューブや胃ろうによるやり方がある。はたして自分はどんな姿になっているやら、無常の世、父とまでは無理だろうが、高齢者という肩書きは付くのだろうか。 

近年、胃ろうは急速に普及しているそうだ。どうしてか?年をとってくると嚥下障害が出てくる。水や食べ物が飲み込みにくくなり、水や食べ物が肺のほうへ行く誤嚥から、肺炎が引き起こされやすくなるのだそうだ。80歳以上の高齢者の死因第一位は肺炎だが、多くは誤嚥性肺炎との資料もある。それに対処する方法として、胃ろうがある。肺炎にかからないようにする安全策だ。胃に直接栄養を補給するのだ。手術も簡単?だそうで、多くの場合3~4年生き続けられるという。看取りを想定している在宅医が家族との間で胃ろうを控えることで合意していたとしても、病院で胃ろうがついてしまうケースもあるらしい。胃ろうは毎日3回の栄養投与が必要で、原則看護師か家族しか行えないという医療行為だから在宅でも可能ではある。しかし、核家族化と在宅医不足と問題は多々ある。 

在宅医療が日本では、まだまだ浸透していないのが現実で、その裏返しが、最後は病院で最善の治療を、ということだ。それははたして当事者本人が、本人にとって最善、のことなのだろうか。喉から管が出ていて、腹にはチューブがつながれて3年もベッドや布団に寝ている姿は・・・私はイヤだ。自分で判断が出来る意識がしっかりしているうちに、意思を明確に家族には伝えて置きたいものだ。尊厳死などという大それたテーマを投げかけるつもりは毛頭ないが、『あら、うれしや あら、うれしや』と唱え死にが出来るよう、目の前の、たとえ小さな御奉公でも骨惜しみせずさせて頂こうと思う。 

被災者の方々の中には、病院は勿論、在宅で治療をされていた方もいらっしゃっただろう。くれぐれもお身体を大切にしてほしいばかりである。復興の道は険しく長い道のりかも知れないが、皆で手を取り合って、微力ながらも支援をさせていただこう。

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