信心の奥ある人

「奥を聞こうより口をきけ」という諺があります。人の心の奥は深くて、聞いただすことはむずかしいが、聞こうとしないでも、その人の言葉の端はしで知れるものだという意味です。話をしているとき、どの程度に心をこまやかに使っているか、それをしらべただけで、その人の精神状態はわかります。学問があるとか、本を沢山読んでいるからと自己の教養を誇示しようとする虚栄心なんかは、惣ち見抜くことができるものでっす。

ところが、仏教には「言語道断、心行処滅」という言葉があります。どういうときに使うかというと、妙法蓮華経は「本地甚深の奥蔵也」といって、仏のみ心の奥深く秘めた不思議な根本の心であるから、その働きを凡夫の力では言いあらわすことも、察することもむずかしい、「言語道断」は表現する言葉がない、「心行処滅」は思慮をめぐらしても考え及ばぬということで、感動からきた沈黙とある人は申していますが、信仰にはそういう言葉を失うほどの心を打つものがありますから、信心の道に精進すると、自然自分の信心に奥行きがでてくるもので、こちらの感度次第で「奥を聞こうより口を聞け」式に、信心の奥行きはわからぬことはありません。 

口唱の時点では同じ信心状態に見えても、精神面や行動面では、厚薄浅深の差がでてきます、どの程度の差と、ものさしではかるようには参らなくとも、言動で信心の奥行きを感ずることはできます。 

現代は、一般に生活水準が上昇し、便利なテレビなどの機械が、どの家庭にも並んでいて、それが豊富な知識や情報の供給源になっていますし、高校生や大学生の数も昔と比較できないほど増加して物心両面の生活が向上し、人の心も豊かになった筈ですが、事実はそう断言できない点が多く、不思議に感ずる人もあるでしょう。ある人は、次から次へと量的にいろいろのものが供給されるので、落ちついて消化吸収するヒマがなく、精神的な「ゆとり」のない豊かさで、それは本当の豊かさではないと申しています。

 信心の眼で見ると、例えば、小恩はわかっても大恩のわからぬ人があると、確かに心のゆとりがないためだなと感じます。また、他人に余計な干渉をし、無暗とお前の考え方や、やり方は未熟だ、自分のが本物だと称して差別視する慢心の一種の型ですが、こんなのも豊かな心の持ち主とはいえません。 

折伏行のはきちがいにも、こういうタイプがあります。冥の照覧を信じ、自業自得の道理がわかっていれば、非難の仕方にも、おのずから限度があって暴力を行使してまで責めて、共存体制にをくずすような行為はしないでしょう。 

信心で「すなお」に仏の教に随従すれば、仏心がこちらに乗りうつって、その人に「ゆとり」と奥行きがでて、現代人の文明の『ひずみ』を解消する御奉公に一役買える筈です。奥行きある信者とはという問いに答えるつもりであらあら書きました。

日晨上人要語録より

Share on Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。