信眼を開く

御教歌:信心の まなこひらけば この娑婆が 即寂光と みえわたるかな

 (受持即身成仏義・扇全5巻402頁)

 信心の眼が開かれてきますと、見えないものが見えてきて、今迄分からなかったことが分かってきます。功徳と罪障、つまり功徳の尊さ、罪障の恐ろしさを感得でき、善因善果、悪因悪果という鉄則を理解できるようになります。

 人を喜ばせたら自分が喜ばれる。人を泣かせたらいつかは人に泣かされる。人を敬えば人から敬われる。あたりまえのことのようですが、なかなか分かりにくいです。親の因果が子に報いる、と申します。

「天網恢々、疎にして漏らさず」という諺があります。天は大きな網を張っており、その網は恢々、いかにもあらいように見えますが、何事も決してもらすものではありません。長い目で見ますと、よい人には幸を授け、悪い人は不幸を免れません。

因果の道理は直接目に見えたり、耳に聞こえたり、匂いをかいだり、舌で味わったり、身に感じたりという五感にうったえてくるものではありません。世の中には目に見えないけれど大切なことはたくさんあります。思いやり、いつくしみ、いたわりなどは大切な心です。人の痛みの分かる人になりましょう。

お互い御同前は、どちらかと言えば、社会的地位があるわけでなく、さりとてあり余る財産もない、ただの平凡な一市民の人が多いです。ただし、他の人と違う点は上行所伝の御題目をいただいていることです。

御題目というなにものにもかえがたい、大事な宝を授かっておるので、そこに自負と自身と勇気と喜びとを持ってください。その尊い御題目を人々の心に植え付ける、いわば教化折伏に生きがいを持ちましょう。それが善根中の善根です。

下種折伏の修行、つまり本因妙の修行の中におのずから本果妙という悟りを得ることができ、その場所が本国土妙です。本因本果本国土の三妙は口唱折伏の行の中に顕現しております。因中に果あり。

信者はお寺の御宝前にお参りし、今日一日体のお計らいと共に喜んで随喜の心を以て教化折伏のご奉公ができますようにということを御祈願致しましょう。一日一回はお寺参詣、基本中の基本でして、これが大原則。

動きの中にお計らいをいただくことができます。恐ろしいのは動きが止まること。動きがにぶりますと、罪障が頭をもちあげ、功徳の道がふさがれます。

確かにこの世は娑婆世界、苦しみが多く、それに耐え忍んでゆかねばなりませんが、信心を貫き通しますと、苦しみの世界が楽しみの世界、寂光に変わってきます。このことを「娑婆即寂光」、とか「我此土安穏」(法華経寿量品・開結427頁)と仰せられております。苦しみを通してまことの喜びを味わうことができます。

高祖大士御妙判 「病によりて道心はをこり候か」

(妙心尼御返事・昭定1103頁)

病気によって健康の尊さが分かり、正しい佛の道に入ることができます。自分を苦しめた病に対し恩に感ずる。それこそ禍転じて福となすといえます。それを思いますと、病という突然、我が身にふりかかった災難が自分を良い所へ導いてくれた恩人となります。

人間は不幸を体験しないとなかなか幸福を本当に感ずる心が養われません。苦しさのなかに本当の人間の心の大切さを知ることができます。

「雖近而不見と信心の目がひらけば、我此土安穏ありありと見えわかるなり」

(受持即身成仏義・後編・扇全5巻398頁)

 

 

Share on Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。