寒参詣日曜大会・日晨上人から教わったこと

本年は八月に、我らが恩師日晨上人の御三十三回忌を迎えます。

それに先だって寒参詣の日曜大会では「日晨上人から教わったこと」と題して、

教務、講務それぞれの代表者から、日晨上人にまつわる思い出を語って頂くことになりました。

十七日は局長からのお話で、特に印象的な点が三つございましたので、以下に挙げさせていただきます。

①社会人としてマナーを教わったこと
青年会常任理事として御奉公されていた局長は、門祖会青年の一座の報告をしに日晨上人のもとに伺いました。御会式の前日は息つく間もない忙しさで、やっとの思いで仕上げた報告書を日晨上人のもとにお届けしました。しかし提出した報告書を一目ご覧になるや、何もおっしゃらず、書類を脇にさっと置かれた、というのです。
局長は内心、「人が寝る間を惜しんで書いたものをそんな風に扱うなんて、随分失礼な方だ」と思ったそうです。しかし三日後庫裡に呼ばれた局長は日晨上人から、「君ね、あんな誤字だらけの文章をもってきたはダメだよ」とお叱りを受けたというのです。一人の社会人としてマナーや心構えをそのような形で厳しく教えていただいたことに、身の引き締まる思いだった、との事でした。

②御奉公者としての心構えを教わったこと。
日晨上人はお役の辞令を渡される時は必ず、
「願わくはつかひ給はれ奉公を するなんどいふ身分ではなし」の御教歌を、声に出しておっしゃったそうです。この御教歌は「少しでも御法のお役に立つのなら、存分にお使い下さい」という心をお示し下された御教歌です。私たちが謙虚な心をもって、御奉公に励む大事を、そのような時にしっかりとお教え下されたとの事でした。

 
③御奉公に創意工夫をこらすよう、教わったこと。
局長は毎年9月から10月にかけて、来年の御奉公内容を日晨上人にご報告していたそうですが、ある時「今年の青年会は上手くいったので、来年も同じような流れでいきたいと思います」と報告したところ、「同じことをしては意味がない。御奉公は創意と工夫が大事なのだから」とお折伏を頂いたそうです。御奉公は考えに考え抜く姿勢が大事なのだということを、この時痛切に感じたそうです。

また、もう一つ印象に残った事は、「お看経に逃げるな」という日晨上人のお言葉です。

日頃、お看経が第一と教わる私たちとしては、少々意外に感じますが、要は「ただ惰性

的に御題目さえ唱えていればなんとかなるでしょう」といった安易な態度をお戒め下され

拝察します。「せっかく若さと活気を持った青年達が集まっているのだから、できる限り

将引の対象者、下種先の人たちの立場に立って、頭や身体を使いなさい」という事を、

のような斬新なお言葉で表現されたのだと思います。

私たちの知らない日晨上人の息づかいを感じることのできた、貴重なお話でした。

 

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信友を増やそう

班作りが成功しても、班内信者の交際が円滑にいかないようでは、作りがいがありませんし、せっかくの努力がむなしい結果になります。それで親密増進を進行させる交際の工夫が重要な課題として残るわけです。ではどうするか、まず、よき友こそ人生の財宝だということを悟ることです。信心の幅を広げ、厚みを増すのは信心の友のいかんによります。立場の違う友達との交際が長く続けば、相互の影響でたくさんの人生の知恵を、知らぬ間にわがものとすることができ、豊かさ増し、ご奉公が上達します。勉強でも一人ぼっちでは一生かかってもたいしたことはありません。交友の範囲が広がれば、自然とこちらの幅も広がります。

「異体同心なれば万事を成ず」との祖訓のごとく、立場の違う信者同士が妙法を中心にして結束し、協力すれば、どんな難題でも解決する力を生み出します。三人でも文殊の知恵が生ずるといわれているくらい結集する力は偉大ですが、同時に、相互の影響力で個人個人の進歩のすばらしいことも銘記すべきです。とにかく信者は交友の範囲を広げてください。

班長組織は、信者の交友関係の一番小さい単位ですが、ここが親密増進の稽古を始める第一の関門で、信心を練磨する宝の山の入口、ここでのご奉公が不成功に終わっては、前途に光明が輝きません。班内信者を円滑にするご奉公を軽視してはいけません。

では、どういう心構えが大切で、どんなやり方が必要か、信心常識程度のことですが、若干述べてみましょう。その一つは親切です。先方の立場になって考え、慈悲行の折伏をその間に貫くのですから、あせってはだめで、あくまでも親切心がものをいいます。恩にきせたり、ほめてもらおうなんて野心はおさえないと、骨惜しみのない親切はできないものです。

その次は信用を落とさないこと。「法の友同じこころのはじまりは いつはりがちのふるまひなせそ」で、うそいつわり、裏切り行為は不信を招くもとと心得、ごまかしや陰ひなたのある行動、さらに悪口や陰口をいいふらす低級な行動は、信用度を下げるばかりで厳禁です。それより他の少々の美点でも探し出してほめる稽古をすることです。ただし、見当違いはお世辞になって軽蔑感をいだかせ、逆に信用を落とします。

口先だけのやり方も人間関係をよくする道ではありません。むしろその場合には「沈黙は金」です。間ということの大事さも心得て下さい。親切が過ぎて押しつけがましくなり、「うるさいなあ、しつこいなあ」と思わせては親密度は増しません。私事に立ち入り過ぎるのも考えものです。そういう行き過ぎの弊害除去に役立つのが間を置くということで、反応を見たり、距離を置いて眺め直したりする大事な人間の知恵です。 

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協力の徳

「百喩経」というお経の中の話『悪い象に卵を踏みつぶされた雀は、啄木鳥(キツツキ)に訴えました。「どうか私のうらみをはらしてください」啄木鳥は「苦しむ友を見捨てぬのが真の友といわれているから力を貸そう」といって、蠅と蛙の協力を得て、悪い象の征伐にかかりました。弱い動物たちは相談し、蠅は象の耳に入り、啄木鳥は象の目をつきました。

盲目になった象に蛙は鳴き声を出して水のありかを示すようにして、深い穴へ導きました。悪い象はついに穴へ落ち込んでしまいました』ここには、弱者同士が自分の身を守るために、どう協力すれば勝つかそのやり方が説かれています。協力は弱者を強者にします。

昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあります。愚か者でも三人集まって相談すれば、よい分別があるものという意味、文殊菩薩は仏教では知恵をつかさどる方です。

また、「膝とも談合」とよくいうでしょう。窮して相談相手のないときは、自分のひざでも相談相手にしろということですが、相談するに足りないと思う人にでも、相談すればしただけの御利益がある、協力で利口になるという意味。

佛立開導日扇聖人は、常講歎読滅罪抄に、信者堕獄の条々として、三つの項目をあげておられます。その一つに「異体同心と口にのみいひて、我慢強く同破のこと」という一項があります。

信者は異体同心の祖訓を奉じ、ご奉公すべしなどと、口では強調していても、我慢強くて協調精神がなく、同心を破るときは、信者でも堕獄の業をつくると、仰せられた御指南で、協力体制を破る人を厳しく戒めておられます。信者の協力は、ただ派閥を作ったり、徒党を組む世間の仲間意識で団結するのではなく、崇高な妙法弘通をめざしての協力関係ですから、これを破壊することの、恐ろしさをご指摘くだされたのです。

梅雨時の田園風景中、共同作業で田植えをしているのを見ると、人間の協力美を感じます。最も親密な両親とか兄弟が協力しないで困るなどという話を聞くと嫌な気持ちになります。当事者もさぞ不愉快なことでしょう。

ですから、、隣人との交わりも、勤務先、その他周囲との関係は、争わぬよう心がけ不愉快のたねを減少することが肝要です。世を恨み、人をとがめてばかりいる人は、周囲の人々との関係に配慮が不足で、協力から生ずる楽しみを知らないようです。

日頃相談し合ったり、力の貸し合いのできる人は、人間関係の調節が上手な人で、今日を愉快に暮らしているに相違ありません。気持がよければ、それが健康にも影響し、気持に余裕があれば勉強も楽しく進み、人にも親切になり、さらに愉快になること請けあいです。信者は信心生活で協力の徳を体得し、足並みそろえた楽しい日々を送ってほしいものです。

日晨聖人要語録より

 

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信の一字

人間の暮らしは、もちつ、もたれつというのが原則です。どんなにエライ人でも、自力だけでは暮らせません。多くの人や、物のおかげに依存して生きているのですから、社会という立場から見れば、みんな細胞で、全体に対して自分の役目を果たさなければ、生存を許されません。従って他との協力方法が下手だと、ヒドイ目にあいます。

 人体にとって有害なものは排除され、大切なものは外に出ないように守られます。血液は大切ですから、誤って出血しても、直ぐに固まって切り口をふさごうとします。同様、社会でも有害な人は、刑務所に入れて害毒を及ぼさぬように、社会から締め出されますし、そこまでいかないまでも、人が嫌がって目に見えない垣をされ、警戒されます。有害でもなく、有益でもない人は、排斥もされないが歓迎もされません。有益で、いてくれなければ困るという人は、人から歓迎されて、多忙な日々を送り、生活にも困らぬでしょう。

 では、有益な人とはどういう人でしょうか?会社を例にとれば、会社が発展する図星を心得て、それに役立つ働きを、自己の立場に応じてやる人が大事にされ、見当違いの力の入れ方をする人は喜ばれません。むろん、発展を阻害する人は嫌われ、時には首になるでしょう。ですから、ただ働いていれば、何とかなるというネボケタやり方はだめで、要点を正確に把握し、それに協力する事が肝要です。

 信心上のご奉公でも、たとえば、総助行運動開始という時に、ご奉公の要点をまずつかみ、それを達成する良法を考え、その上で骨惜しみをしない行動が大事です。つまり前期と後期の中間に行われる助行運動という性格だけを考えても、今回は、この点に重点を置かねばならぬということがわかるはずでしょうし、運動の趣意書をよく読めば、どこにねらいがあるかわかります。

 当宗で最も強調する「信の一字」ということでも、ただ疑いなく、素直に聞くことだという一般の解釈だけでは満足できません。仏の意をくみ取って、特に力の入った点を間違いなく信受する事に努めるのです。その仏の本心に即応する努力をしないで、単に仏説を信じても、方便や、随他意の仏説では、仏の真意を信ずる事になりませんから、当宗の信心ではありません。

それで、当宗の信者は、いつでも仏祖の根本の心にかなっているや否やを反省しつつ、信行を進める事が大事です。もろもろのご奉公も、生活建直し運動も、一番大事な心構えは、根本精神に即応して行動するケイコをしているという事です。どうしても、手前勝手な考え方が前面に出てきて、根本の心が行方不明になりがちです。「信の一字」についても、当宗流の解釈を持って如説修行をしてほしいものです。

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自他の喜び

菩薩行とは、彼も喜び、我も喜ぶ自他の恭悦を目標とする修行です。自己の立場や利益ばかりにとらわれて、他の喜びに心を配れぬ人は、信心上は未熟者です。

 「自分の顔はこれ以上朗らかにはできない、ほっておいてくれたまえ」と周囲の人を不愉快にして平気でいる損な性分の人があります。「感謝の心を表明する」ことが、他に喜びを与える一つの要素ですが、「ありがとう」と怒ったような顔でいったのでは、相手は喜ばないでしょう。

ですから、他に喜びを与える修行ともなれば、顔かたちにも配慮がいります。また、聞く方もよい聞き手になることが喜びを与える道です。話の腰を折ったり、冷笑したり、ムッツリして聞いていたのでは、話し手はくさってしまいます。

日蓮聖人は親に対する日常の心得として「せめて、することなくば、日に三たび笑へとなり」といわれて、笑顔でも孝行せよと教示くださいました。喜びを与える修行は、こういう配慮から始まります。

 そこで、折伏の場合はどうなるか、「諌言耳に逆う」道理だから、にくまるるほどに折伏するのがよいのだとの考え方でいいでしょうか。それは、確かに折伏の一つの心構えとしては大事なことですが、いつでも怨嫉を激発するようなのがいいとは限りません。やはり、喜んで信伏させる努力が大事です。

したがって恩にきせたり、権勢づくだったり、おどしをきかせたりして、嫌気を起こさせるようなのは下の下と申さねばなりません。礼儀を心得、やさしい顔つきで、いたずらに反感を起こさせない心遣いが必要です。そして一日も早く御利益を感得させて、信心のありがたさをわからせねばなりません。

 もし目的とする御利益がある程度の苦しみを経なければ到達できない時は、ただちに喜びを与える訳にはまいりませんが、明日の幸せを得るためには、今日の苦痛に堪えねばならぬと、ねんごろに説けば了解できるはずですから、そういうときは希望をもたせ、苦痛に対処するよう力づけることが大事です。

 だいたい、幸福を与えて喜んでもらうということは、実際的には、金銭的に例をとれば、金銭を直接与えることではなく、金儲けの方法を教える場合が多いのです。ですから、ご奉公の経験を持ち、世間の苦労をした人ならば、菩薩心がありさえすれば、貧乏でも喜びを与えるご奉公は可能なのです。信行実践や御利益談を聞いたとき、スグ、他に伝えても喜びを与えられます。

教化育成も、要はどうしたら喜びを与えられるかという点がポイントで、その点を、土台に置いて努めれば成功疑いなしです。自分の努力で喜びが与えられれば、だれだって自分も嬉しくなります。喜びを与える苦労をすれば、自分に喜びを得る道も考えつきます。ですから、私どもは常に喜びを与えることに気張るべきです。

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長所を見よう

人間には長所と短所の二面があり、長所はこの点、短所はかくかくだとわかって、長所をのばし短所を抑える生き方ができれば最高です。ですから人間は長所と短所を知る必要があるのですが、なかなか簡単にはまいらぬ問題で困るのです。

 昔の哲人が「汝自身を知れ」といわれた。自身を知るということは長所と短所を知ることだと解釈すると、その意味が多少分かる様な気がしますが、何が長所でどこが短所かと考え始めると、長所と短所が入り混じったりして、まったく戸惑うのみです。

 仏教には一心に十界が具足すると説かれています。十界とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界で、人間を中心にして悪と善との等級を定めた様なものですが、畜生界や人間界は、私達の目にもわかりますが、地獄界とか餓鬼界、修羅界とか天上界などは私どもの目には見えないので、そういう世界のあることを信じられない人もありますが、人間の心に十界の持つ性質が潜在している事は分かるはずで、その点を日蓮聖人は観心本尊抄という御指南書にさらにそれぞれの各界が互いに十界の性質を具し合っている事を詳説されています。

それを専門語では十界互具と申します。人間の心に地獄界から仏界に至る善悪が具足している事、すなわち長所や短所を十界という角度から仏教でも考えている事を申したいのであります。

そこで、その長所をのばす方法を考えねばなりません。信仰は、そういう問題の解決に役立つためのもので、ここでは長所をのばす要件のニ、三を探ってみたいと思います。

昔から世間は私どもの心の鏡だといいますが、まったくその通りで、社会の出来事の一つ一つが、私どもの心の反映していないものは一つもありません。泥棒や殺人事件の新聞記事などを読むとその連中を人間の屑の様に思いますが、さて自分の心を見つめると、泥棒根性もありますし、腹でも立つとあんな奴殺してしまえという殺人犯人同様の心が起きないとはいえません。

したがって自分の短所も長所も全部反映していて、見つめ方さえ上手なら、自分の短所も長所も世間の万象でわかるのです。ただ、うぬぼれとか、ごまかしとか、よくいわれたいという凡情が強いと、人のふりを見ても俺にはあんな心はないとか自己弁護をして体裁をつくるのです。それでは短所を抑える事も、長所をのばす事もできなくなるので、信仰の道では、やわらかい心、素直な心が大事で、それが長所をのばす一つのポイントです。

次に長所の見分け方を練習しないと、見当違いをする事が往々に起こるものでその点を深慮してほしいのです。小事でも目標を立てそれに到達すれば成功ですが、そういう成功には気がつかず、華々しいものでないと成功と考えたがらぬものです。

肩書きや地位も今の世の中では必要ではありますが、それよりも心の構え方「親切である」とか「公平である」とかいう仏教の菩薩心とか仏心に通ずる心を養って、心を豊かにすることの方が、長い目で見るとずっと大事なのです。

大志をいだく事も結構ですが、千里の道も一歩からで、足モトを忘れぬよう、その日その日の目標達成の意義を心得て、積功累徳に努めているや否や、重役になる前によき夫よき妻である事に心を配ったり、一社員として成功する事が先決だと考えているかどうか、要は、長所を見い出す事に力を入れ、アラ探しに興味を持つ様な悪趣味を超越する様願いたいのです。

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利口ばか

おのれが貴く生きるのには、時代のせいにしたり、環境が悪いとのみ考えたり、他人を罰したりしないで、自分を罰して自省すべきです。たとえば、コンナ地位では手も足も出ない、やりようがないというのは地位を罰しているわけで、それではだめです。どんな地位でも責任もあれば理想もある。

それなのに現在の地位での理想が発見できなければ、いかなる地位になっても理想を見い出すことは困難です。なかにはよい指導者がいない、良友がないという人もいますが、それも未熟な考え方です。

孔子は、「三人行けば必ず我師有り、その善き者を選んで之れに従い、その善からざる者は改む」(論語)この言葉によれば不善の人でも、反省の手本となるのではないかと断言しておられます。師友なしとはいえません。

 また、善を行うチャンスがないと、他を罰している人もありますが、自分に善を行う心があれば、いつでも、どこでも徳を積む機会があります。お釈迦様がある時、盲目の一老女が針に糸を通すことができなくて嘆いているのを見て、わざわざ立ち止まって盲女のために糸を通してやりました。善を行う機会は路傍にもあることの一つの証拠です。

このように、貴く生きようとする場合は他を罰してはいけません。他に責任を転嫁して、自分をよしとすることに、ヤッキとなるような人は、「利口ばか」の一種のような気がします。

 異体同心の祖訓でも、仏祖のみ心を中心に奉載して、お互いに責任を分け合い、他を罰せず、自己反省を第一としなければ、どうしても口のみの異体同心になって、その良さを発揮する事は出来ないでしょう。

 科学技術の急激な進歩、経済力の未曾有な上昇に伴って、反面では精神面のダラシナサが目立ってきた今日、だれでも精神の刷新を口にしないものはありません。思慮分別のある人でしたら、このままでは人類の前途は憂慮に堪えないと思わぬものはありますまい。友情ということを一つ考えても、まったくナッテないと思うでしょう。それで、古人を例にあげて反省の資料に提供してみました。

 もう一つ「悪者ばかりで家庭円満」という道話を転載してみる事にいたします。ある村でのできごと、一軒の家は七人暮らしであったが、争いごと一つしないのに、もう一軒の家は三人家族でありながら毎日家内にゴタゴタが絶えず、極めて二軒は対照的でした。

ある日三人家族の主人は、七人家族の家を訪ねて「お前さんの家は家内も大勢なのに、けんか一つした話も聞かないが、どうしてお前さんの家はそう仲良く暮らせるのか一つ教えてもらいたい」といった。

七人家族の主人は「いや、あなたの家には善い人ばかりがおそろいだが、私の家は悪人の寄り合いだからですな」と笑っているので、三人家族の主人は合点がいかず「どうもわかりませんね、七人も悪人がそろっていれば なおさらけんかが募る訳なのに、悪人ばかりだからけんかがないとはどういうことですか」「いやなんでもありませんよ。

例えば、私の家ではだれかが茶碗を蹴飛ばしても、火鉢がひっくり返っても、『私が悪かった』『いやそこへ置いた私が悪かったのだ』と家中のものが悪いものになる競争をするような有様ですからけんかの起こりようがありませんよ。

それをあなたの家では、みんな善い人になろうとして『ここに茶碗を置いたのはだれだ、こんなところに置くからオレがけとばしてしまった』『いやけとばすのはあなたの不注意だ、私は知らない』と、みんなが罪を逃れようとするからけんかの絶え間がないと違いますか」。

 こう言われて、三人家族の主人は初めて目が覚めて、なるほどと感心したという話。悪人だと思っているので、人を責める前に自分が悪いのだと思えるのです。善人ぶっている人は、おれは悪くないといううぬぼれがあるので、他が悪いと判断したくなるのです。

 門祖日隆聖人は、妙法の信者は「我身大悪人と観念して、ひとえに経力(妙法)にすがるべし」と仰せられた。罪悪深重の身の上だと考えられれば、素直に妙法に信伏随従できるのです。えらがったり、善人ぶると、うまく妙法に溶け込めないのです。

 

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好きこそ

「人のいふすきこそ物の上手なれ きらひな道は足もすすまず」と御教歌にありますが、好きで好きでたまらぬという愛情が、する仕事を、自然一生懸命にさせ、上達させるのです。

それが逆に嫌いなことは、得だとわかっていても手を出しません。ふだん、損得の勘定ばかりで働いているかに見える人も、実際は好き嫌いの感情に左右される場合が多いのです。日

蓮聖人や御門下のごとく、名聞利養を超越して妙法の布教に愛情が持てたならすばらしいナと思います。品物でも好きなものは大切にしますし、本当に好きならその品物に関する情報などを聞いたり読んだりすると、それをドンドン吸収して、その知識がますます深く広くなります。

ころが嫌いなものに対しては、鼻もひっかけません。ですから進んで研究もしませんし、それを大事に守る苦心も払いません。裏側の裏側まで知り尽くす努力はむろん、美点を生かす工夫も、欠点を補う方法にも手をつけませんから、ほとんど無知に等しい状態となります。

日蓮聖人は、

「妻の夫を愛むが如く、夫の妻に命をすつるが如く、親の子を捨てざるが如く、子の母をはなれざるが如し」

と、信心の底にほ愛情が必要だと説かれたものですが、愛情の欠けた信仰は、絵にかいた餅です。

「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれ」

の御経文も、一心に仏のみ心そのご修行ぶりのすべてを知りたいとの愛情で信心に打ち込めという意味で、通り一遍の信心では仏の慈愛もお力も知るよしなしです。

ですから、好きこそ物の上手なれ式の信心に突入できたら、ご奉公ぶりも上達し、真剣に弘通の道を考え、どういうやり方がご本意にかなうか虚か実かの分別もつくようになります。

現在熱がこもっているらしく見えても、可否の判断がよくできない程度の力の入れようでは、ときには、心ある人の物笑いの種になったり自分でもフタをあけたらカラッポなのに気がついて、しまったと思う結果が出るかもしれません。

しかし、その程度の因果応報の判断なら、だれでも少々気を入れればできますが、信心のまことの功徳の有無の判断ほ「今生の影が未来へうつるなり」という未来かけての因果関係を標準にしたものですから、スケールが大きく、未熟な信心では考え及ばぬ境界で、たいへん理解がむずかしいのです。

強盛な信心、深い愛情のこもったご奉公で声なき声を聞き、形なき形を見る心が大切で好きこそものの上手なれを積み重ねて、仏心のいただき方が上達しないとだめなのです。

そして弘通の将来の見通しに立脚して、現在のやり方を真剣に反省するほどの御法に対する愛情の心がないと、急テンポの現代に適応する教化の道は開拓されません。好きで好きでたまらぬという愛情から、見えないことが見えてきて、其の功徳の道がわかることを一言したしだいです。

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両面を見よ

信心ありげに見える人でも、商売とか仕事の上で、だらしがなかったり、常識が掛けていたら、良い信者の部には入れないでしょう。また逆に信心の勉強を少しもしないで、信心のことをトヤカクいうのも、軽率な人と申さねばなりません。

私どもの理想は、信心も気張り、仕事も熱心ということで、そういう人が本当の信者といえるのです。進歩的といわれた人達が、平和とか、反動とか、民主化といった一種の合言葉だけで議論をしていても、何だか物足りない感じがするのは、その人達が大衆の生活に根を張らずに議論だけしているためで、一方に傾きすぎたからではないでしょうか。

一口に信心といっても、精神と行動、信と行の調和が大事で、どちらに傾いてもまずいのです。最初、行動に重点を置いた人は、早く精神面でも信心を握る事が大事です。精神から入った人は、一日も早く修行の面でも、一人前になろうとする努力が大事です。

御利益でも、自他安穏、同帰常寂とご祈願しているように、自分だけでなく他の人も共々に、物心両面の安定が得られるようにと願うのが自他安穏という意味、同帰常寂というのは、未来成仏も落伍者なく御利益がいただきたいという意味ですから、現在と未来、自他ともにというネライです。つまり自行だけでなく化他の行もし、二世安楽の御利益がいただけなければ、佛立信者ではないということです。

改良でも、信心上の改良と、日常生活の改良とを、法華経の精神面で、車の両輪にように釣り合いを取りつつやれたら、その人は幸福になれるのです。

しかし、この調和を取りながら進行することは、口では簡単に言えても実行はなかなかむずかしいもので、いつの間にか一方に傾きたがるのです。その点の配慮が大事で、前方のみを見ているときは、後方を見る努力をし、左に傾いたときは右を見る余裕をつくり、夢を追っているときは現実を、現実に執着しているときは理想をというぐあいに反面を見る稽古が大事です。

奥さんが子供にばかり心が傾いて、夫を軽視すると、それが家庭争議のもとになったり、細君のことのみに心を奪われて、親を忘れる夫なども感心できません。青年が老人の言行からその良さを吸収する聡明さのないのも不幸ですし、老人が青年の立場を理解できないのも頑迷というものです。

教えるは学びのなかばで、教化運動のように、他のためによかれと努力することが、自分の経験を豊富にする結果を招来します。建直し運動のおかげで、信心のやり方まで改良できるヒントを得たり、あるいはいっそう信心の良さが分かったりします。

「法華を識るものは世法を得べし」で、信心をみがけば、仕事の方にも大効果がなければ信心したかいがありません。生活の建直しと、信心の改良との相互に影響し合う効果、それを銘記して、改良断行の年を迎えてほしいのです。

 

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協力ということ

協力から生ずる力は、相当の威力を発揮します。ですから信者は仏に協力を求め、実業家は協力体制を築く事に苦心と努力を払います。根の弱い木も、支柱が堅固なら、大風でも安心です。

自主独往とか、独立自尊とかいう言葉は、依頼心の強い弱虫を叱った言葉で、実際は、一人で仕事は出来ません。独り立ちに見えるのは、主役が目立ちすぎるからか、こちらの眼力が未熟で、脇役の働きを見出す力がないからです。

世の中は、万事が相より相助ける相関的関係で成立していますから、自力と他力の協力を考えないで暮らそうとするのは乱暴な話です。

異体同心という協力の方法は、各自がそれぞれの分野で働きながら、中心の大目標をめざして協力することで、同志的、信仰的協力とでも申せましょう。

三人寄れば文殊の知恵という協力方法は、相互に不足の箇所を補充し合ったり、考えを噛み合わせたりして、より以上に向上進歩しようという相互的、練磨的協力といったらよろしいでしょう。また、一本では弱いが、数本まとまれば強くなるという補強的協力の方法もあります。

要するに、いずれの方法による協力でも、独力より大きい力が出るのは事実です。ただそれを悪用すると大悪を犯し、善用すれば大善が積めるのだと心得て、かりそめにも悪事の協力は用心し、信心上も、生活建直しも、信心第一で、よき協力者を得ることに努めるべきです。

私どもはいわゆる凡夫ですから、ときどき、協力の功徳を忘れて、それを破壊する同破の罪をつくったり、ご弘通の邪魔になることに付和雷同したり、協力の煩わしさを嫌って独り信心に走ったりするときがあります。または他の協力を要求しながら、自分は非協力という、はなはだ手前勝手なときもあります。

当宗で異体同心という場合は、日蓮聖人に心を合わせることです。それが親しい教務員とか、役員を中心にした結合になると、党派争いが起こったり、分裂したりして、協力の弊害が多く出ます。

それで個人から家族、それから社会、個人から国家、それから世界で、信心では、家から寺、寺から本山、宗門というふうに、協力の範囲を、常に拡大しなければいけません。歴史家の指摘するところでは、文化の躍進は、異種の文化の接触するところに起こるといいますが、これも一種の協力の効果と申せましょう。

当宗で、生活建直し運動とか、社会福祉事業とかをご奉公の一部に併用するゆえんは、時代相応のご弘通の道を拡大強化したい念願にほかなりません。上述のごとく、「協力ということ」には、いろいろな問題が含まれています。

「気に入らぬ風もあろうに柳かな」ですから、お互いに忍辱の心で、積極的に協力の功徳を積みましょう。

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